台湾総統選前夜

S君、その後どうしているだろうか。

木曜日の夕方から台北にきている。台湾の総統と立法院委員の選挙の投票日を11日土曜に控え、そのまえに台湾の状況をこの目でみてみたくてやってきた次第。なぜ台湾なのか、話せば長くなるが、これまでに君に伝えてきたことからだいたいわかるはず、日本のマルクス経済学に対する私なりの反省に根ざすもの。詳しい経緯は、また時間をみておいおい書いてみるが、直接は2000年に前後して、グローバリズムについて、ネオリベラリズムの国際版だ、アメリカナイゼーションだという多数説に抗して、グローバリズムの底流をなすのはNICs, NIEs のような第三世界における新たな資本主義の勃興だ、これが20世紀を支配してきた「帝国主義段階」論ではどうしても捉えられない地殻変動なのだ、といったかいてきたことの延長だ。

ということで木曜日の7時ころ、東門でMRTをおりて魯肉飯を食べたあと、ぶらぶらと中山紀念堂の裏に抜けると、すでに観光バスがぐるっと紀念堂のまわりを取り巻いていており、藍と赤のカラーでひと目でわかる「韓粉」(韓国瑜のファン、粉は日本語ではフンですが台湾語ではフェンで、粉すなわち英語のfanです)の一隊が総統府の方向に流れてゆくのでついてゆくと、「自由広場」のという文字が掲げられた門の下で、もう大群衆になっており、なかなか中心会場の凱達格欄大道には入れません。私の年齢にちかい人ばかりが目につきます。小旗を掲げて「韓国瑜!」という演壇からのかけ声に「凍蒜!」と一斉に応じます。「凍蒜」は同じ発音になる「当選」のことだと台湾のニュースをみて知りました。すごい熱気でした。台中市長の盧秀燕が挨拶に立ったあたりで大喚声、「好不好!」といえばすかさず「好!」と答えます。何が「好不好?」なのかは残念ながらわかりませんが。そろそろ帰ろうとするとこんどは新北市長の侯友宜が挨拶にたって、これはちょっと意外でした。新北市長は韓国諭とはソリが合わず積極的な応援を回避してきました。この日も帰ってテレビをみると、韓国瑜に腕首を掴まれて、いっしょに手を上げているようにみえました。….

こういう細かい話はキリがないのでやめ、ここでは私の関心事のみ、述べておきます。それは結束の硬い国民党支持者のコアにあるのが何か、という問題です。この日、会場のまわりを歩きながら、私がこれまで感じてきた思いがいよいよ強まってきたのです。要するに、今日の国民党を支えているのは、農民や商工業者など、要するに自営業者の力ではないか、という思いです。

台湾の戦後史をかじったばかりのころ、蒋介石率いる国民党が1949年に中国共産党に追われて台湾にやってきて、日本の敗戦で解放された台湾の民主主義を圧殺しのだ、と私は思い込んでしまったのです。228事件は前年の1948年の出来事ですが、国民党軍の本体が入ってくると、反抗分子を軍事的に圧殺し、史上最長といわれる戒厳令を1987年までひき、この間、この事件のことを公にすることもできない圧政が続いた、といとも簡単に思い込んでしまったのです。経済学の世界では、よく「開発独裁」という用語が流布しており、韓国をみても、台湾をみても、すぐこのラベルを貼るのは悪い習慣です。韓国との違いは別の機会に私の考えを書いてみますが、台湾について言うと、要するに1988年に蒋介石の息子の蒋経国が没することで、戦後抑え込まれてきた「民主主義」がやっと息を吹き替えしたのだ、となぜか簡単に思い込んでしまったのです。

ただ台湾をすこしばかり旅行して、どうもヘンだなと思い始めたのです。試みに、行く先もきめず高雄や台南から、いきあたりばったりで(運賃がめちゃくちゃ安いので)バスで小一時間ばかり、小旅行にでいたとしてみましょう。すると農家が立派なのです。日本の農村も結構なものですが、それ以上に「豊か」にみえます。「農会」の建物もそうで、いかにも地域の中核をなしているという感じがします。

ぶらぶら歩きながら思ったのですが、これは要するに「農地改革」をかなり徹底的に進めた結果なのではないかと。国民党が大陸から渡ってきた当初、日本の植民地支配を終わらせる解放軍だと歓迎した台湾の民主派を新たなかたちで抑圧した、これが228事件の悲劇だと理解してきたのですが、これは自体の一面でしかなかった、かれらは同時に外来の強権力として、日本で進駐軍が進めたように、戦前からの地主の追放や、財閥解体はわかりませんがあればやったでしょう、この種の民主化を独自に敢行したのです。

所詮「実証」なんか一面しかみていないという、君が忠告してやまぬ例の私の「暴論」で、直感的な結論だけをいえば、国民党の有力な基盤は、なしくづし的だが、しかし持続的な民主化で国民党政の強肩のもとで形成された強固な自営業者層だ、というものです。おとといは、熱狂的な「韓粉」にまみれなるなかで、この感じがいよいよましてきました。

彼らからみれば、国民党に追われて日本や米国に逃亡した戦前の地主やインテリの唱える「台湾独立」など、かつての自分たちとの立場を取り返そうとするだけにみえてしまうのでしょう。それよりは、いかに抑圧的だといっても自分たちの財産と福利を約束する国民党の支持に回るわけです。失言や暴言を繰り返しても、自分を「野菜売の親爺」だと主張する韓国瑜に声援を送りつづけ、けっして民進党になびこうとしないのは、このあたりの深い溝にあるのではないと思うのです。このあたりはもう少しちゃんと分析してみますが。

国民党の造成の熱気を逃れて、西門町まで歩いてきて地下鉄MRTにのって帰るまで、民進党支持者らしき人々のかげもかたちもなく、例の小旗をもった歐吉桑(オジサン)歐巴桑(オバサン)ばかりが目につく。どうしたことかと思ったら、民進党は台北の隣の宜蘭と基隆で造勢していたのでした。両者が接触したらどうなるのかわかりませんが、なぜか、自然にちゃんと別れてラリーをしているようです。

ということで、昨日金曜日は投票日前日。今度は民進党の本体が台北に戻り、国民党の主流は高雄に南下してゆきました。7時過ぎから、前日国民党が造勢したのと全く同じ場所で、民進党の集会がはじまりました。こちらは9時半すぎにトリで蔡英文が登場して演説をおえるまで、ずっと聞いてきました。立ちっぱなしでけっこう疲れました。

周りを見回すと、昨晩とは大違い、「年軽人」と呼ぶそうですが若い人が圧倒的に目につきます。もちろん年配の人たちもいて(台湾は日本なみの長寿国ですから)、詹雅雯が演壇で歌うと歐巴桑もいっしょに歌っていましたが、そのあと滅火器が登場するのみんなスマホをかざして左右に振り、これをドローンで上から撮影した画面が巨大スクリーニンに映し出されてたいへんな盛り上がりようでした。滅火器といえば2015年の太陽花学連のときを思い出します。この運動が私を台湾へ惹きつけたひとつの契機でした。この学連から時代力量への流れなども、もう少し詳しく話しますが、このときのリーダーの一人だった林飛帆が、いまでは民進党の若手リーダーとして演壇に上がって支持を呼びかけていました。いずれにせよ、2日連続でラリーをみて、以前からの国民党、民進党の印象がそれなりにはっきりしてきました。

ということで、今この文章を台湾大学の学生食堂で書いているのですが、今日2020年1月11日は投票日、4時で〆切、即開票なので、晩飯を食べて帰るころには結果がはっきりするでしょう。「民主主義」については、年来の君の意見もぜひぜひ聞きたく、連絡をまちます。

『資本論』第二巻を読む:第9回


  • 日 時:2020年 1月15日(第3水曜日)19時-21時
  • 場 所:駒澤大学 3-802(三号館の奥のエレベータで8階に)
  • テーマ:『資本論』第2巻 第2篇第8章
第8章「固定資本と流動資本」
一口に費用といっても、頻繁に支出回収される費目もあれば、いったん支出されると回収に時間がかかる費目もあるのはすぐわかること、だから「機械や工場設備は固定資本、原材料は流動資本だ」という区別には自然にみえます。ところが、一歩ふみこんで、そもそも「固定資本」とはなにかを、一般的に定義しようとすると途端にむずかしくなります。何をメルクマールにして二分したらよいのか、両者の間に中間的なものは存在しないのか、この章も批判的に読み込んでみると問題が山積しています。

形態的区別

基本定義

最初の4パラグラフで固定資本の定義が与えられています。しっかり読み込んでみましょう。

資本価値のうち労働手段に固定されたこの部分は、(中略)その使用形態で流通する zirkulieren のではなく、ただその価値だけが流通する zirkulieren のであり、しかも、その価値がこの資本部分〔労働手段〕から生産物に — 商品として流通する生産物に — 移行する übergehen のに応じて、徐々に、少しずつ流通する zirkulieren 。(中略) この独自性によって、不変資本のこの部分は、固定資本という形態を受け取る。S.160

あとのほうにも同じような規定がでてきます。

労働過程の本性にもとづく労働諸手段と労働対象との区別が、固定資本と流動資本との区別という新たな形態に反映される。S.162

簡略化すれば、「労働手段」(に投下された資本)→「固定資本」。そのうえで、その特性を部分的価値移転 Wertübertragung に求めた文章です。部分的価値移転 →「固定資本」という一般的な定義になっているかはハッキリしません。固定資本・流動資本の区別は、対象規定なのか、(「独自性」)属性規定なのか、という問題です。1,2,3… が自然数だというか、公理をたてて自然数を定義するのか、の違いのようなものです。理論的には後者の属性規定でゆくべですが、それはかなりむずかしく、ここでも「使用形態での流通」「価値の流通」という見慣れぬ規定が登場し、両者が一致しないものが固定資本であるという定義になっています。「価値の流通」はこれまでのところでは、生産手段の価値は労働によって生産物に「移転」する、と述べられてきました。この「流通」は第一部で厳密に規定してきた「流通」の意味から大きく逸脱しています。「流通」という用語がここで「流動」化してしまっています。このパラグラフの最後のところでエンゲルスが「生産過程に前貸しされた資本のうちの他の素材的構成諸部分は、すべて、それと対照的に、流動資本〔zirkulierende order flüssiges Kapital〕 を形成する。」と、マルクスの草稿にない flüssiges の一語をわざわざ追加せざるを得なかったワケがあります。

補足規定

この後いくつか、補足規定が続きます。定義に対して「混同しやすいがこれは固定資本ではない」式の補足が列挙されています。こちらは基本定義に対してわかりやすいので、昔の『経済原論』の教科書には必ずでていました。

  1. 補助材料も素材的には生産物に入り込まないが固定資本ではない。
  2. 輸送手段は個人的消費に入り込む点で他の固定資本とちょっと違う。
  3. 土地改良に使用される素材(遅効性の肥料なども)は固定資本になる。
  4. 役畜は固定資本。食用は流通資本。
  5. 機械製造業者の機械は流動資本だが、機械の買い手のもとでは固定資本。

固定性の程度

労働手段の固定性の程度は、その耐久性につれて増大する。すなわち、(中略)

生産過程で使用される資本と生産過程で消費される資本との差額はそれだけ大きくなる。S.161

どれが固定資本で、どれが流動資本か、という二分法ではない「固定性の程度」論がちょっとだけ顔をのぞかさせています。これが本来の定義かどうか、わかりませんが、私はこちらに与します。重要なのは「使用される資本」と「消費される資本」の区別です — もっとも「消費される資本」は用語法として無理だと思いますが。第三部だと「充用される資本」と「支出される資本」となるわけですが、ここまでゆけば「支出される費用」と明確に言い切るまであと一歩です。途中省略でいえば、けっきょく大事なのは「資本」と「費用」の区別にゆきつくわけで、私が昔書いた教科書はこの立場で一貫させようとしたものです。

補足規定 part II

古典派の混同を正すというかたちで追加がなされています。S.162

  1. もとより不変資本・可変資本を固定資本・流動資本と混同すべからず。
  2. 物理的不動性は固定資本とは無縁、船舶をもって推して知るべし。
  3. 役畜と飼育家畜の別。労働手段と固定資本の関係付けに向いているかどうかは?
  4. 期間の長短が固定資本を決めるのではない。一年を要する種子だって流動資本たるをもってあとは推して知るべし。
  5. 固定資本の多くは外国に送ることはできないようだが、外国に売買することは可能、つまり国境をまたいで「観念的に流通する」「株式という形態で外国市場でさえも流通する」。ここもだからといって、固定資本・流動資本の区別は微塵も動くわけではないのですが。

固定資本の回転

主たる生産物の生産・流通に対してだけではなく、固定資本にも独自の「回転」概念を認めます。このように複数の回転を想定するとけっきょく、解決不能な泥沼に陥るように思うのですが。

ここでは固定資本に関して、現物と回収された償却資金という二重の存在をとることが指摘されています。

現物形態での固定資本が摩滅によって失う価値部分は、生産物の価値部分として流通する。(中略)
したがって労働手段の価値は、 いまや二重の実存をもつことに なる。(中略)
機械の価値は、さしあたり貨幣準備金の形態で徐々に蓄積される。S.164

可変資本の流動資本的性格

労働力について少し長い再論がなされています。結論は次の点でしょう。

固定資本に対立する流動資本という規定性を受け取るのは、労働者の生活諸手段ではない。それは労働者の労働力でもなく、生産資本のうち労働力に投下された価値部分こそそれである。S.166

生活諸手段ではない、労働者の労働力でもない、というのですが、単純に、対象物ではなく、「資本」なのだから「可変資本」なのだ、というだけならこれほど長く論じる必要はないはずです。

結論

四項に箇条書きされています。

  1. 固定資本・流動資本は生産資本の下位範疇。流動資本と商品資本・貨幣資本すなわち流通資本 Zirkulationskapital を混同すべからず。A.スミスのように。ここではさすがに流動資本は das zirkulierende Kapital ではなく das flüssige Kapital になっています。
  2. 回転の多重性
  3. 部分的価値移転による償却資金の形成。これを固定資本の「価値」が二重に「実存」するといってしまうのは誤りです。形態にある種の二重性を認めることはできても、価値の量は少なくとも変わりません。
  4. 「同じ反復される生産過程のなかで、まったく同一の建物、機械などが機能し続ける。」強調されているわけではありませんが、「まったく同一の」dieselben identischen に留意しておきましょう。identische が英語の identical と「同じ(!)」かどうか、わかりませんが、もしそうなら same ということでしょう。つまり、機械は使っても同じ状態を維持する、ということで、使うにつれて性能が落ちてくるという性能劣化論と対立します。私は性能不変説を支持します。

固定資本の、構成諸部分・補填・修理・蓄積

『勅命鉄道委員会。委員への証言記録。両院に提出』ロンドン 1867年 などを参照しながら、節タイトルのとおりの内容が詳しく論じられています。「摩損」Der Verschleiß という概念が基礎になっているようです。

消耗と摩損

摩滅はまず使用そのものによって引き起こされる。(中略)
さらに摩滅は、自然力の作用によって生じる。(中略)
最後に、大工業ではどこでもそうであるように、ここでも社会的摩滅 der moralische Verschleiß がその役割を演じる。(中略)
摩滅は (社会的摩滅を別とすれば)、固定資本がその消耗 Vernutzung によって、その使用価値を失う verlieren 平均度に応じて徐々に生産物に引き渡す価値部分である。

三番目の「社会的摩損」は学生だったころ「道徳的摩損」という奇妙な訳語で習った覚えがあります。その後moralische には「目に見えない」という意味があると教えられ、「無形の摩損」ぐらいが適当なのかもしれません。しかし、高性能な機械の登場を物理的な劣化と同列におき「摩損」という範疇でとらえるのはやはり誤りです。第三部の市場価値論は、必ずしも機械の存在を重視した内容にはなっていませんが、新しい機械の登場の効果は価値論レベルで説明すべきです。せっかく第三の「摩損」として計上しておきながらすぐに「社会的摩滅を別とすれば」と控除するのであれば、はじめから「摩損」概念を比喩的に拡大するのはやめるべきです。最後の文にあるとおり、基本になっているのは、①「固定資本の消耗」(=機械の物理的劣化のこと)と②「摩損」=「価値部分」を対応させる性能劣化論です。

補填

「補填」Ersatz というのは、減価償却資金を積み立てて、耐用年数に達した機械設備を「更新」Erneurung することです。ここでは
「固定資本の他の諸要素は、周期的または部分的な更新ができる。」(S.172)ということから「部分的更新の進行中における事業の漸次的な拡張」(S.172) の可能性に論及しています。いわゆる「マルクス・エンゲルス効果」あるいは「ローマン・ルフチ Lohman-Ruchti 効果」につながる議論です。

維持費

維持費は補填とは別ものです。Erhaltungskost はもちろん「費用」です。技術的に客観性をもって必要となるのであれば、原材料や労働力同様に「流動資本」扱いすればよいはずです。少し事情が違うのは偶発的な故障などへの対応です。これに関しては次のような説明があります。

他方、資本および労働のこの追加支出によってつけ加えられる価値は、それらが実際に支出されるのと同時に諸商品の価格にはいり込むものではないということも、同様に明らかである。①たとえば、 紡績業者は、今週は滑車がこわれたからとかベルトが切れたからとかいう理由で、先週よりも高く糸を売るわけにはいかない。紡績業の一般的費用は、個々の工場におけるこのような事故によっては決して変動しはしなかった。②この場合にも、すべての価値規定の場合と同様に、規定するのは平均である。 一定の事業部門に投下された固定資本の平均寿命中における、 このような事故と必要な維持および修理労働との平均的な規模は 、 経験によって示される 。 この平均的支出は、〔固定資本の〕平均寿命の期間に配分され、それに照応する可除部分が生産物の価格につけ加えられるのであり、それゆえ生産物の販売によって補塡される。S.176

興味深い箇所ですので、全部引用してみました。ポイントはで示した部分で、偶発的な費用は「一般的費用」にはいらないとしている点です。①は正解でしょう。競争相手の紡績業者を登場させれば、理由がもっとハッキリします。はいらないのだから、これで一貫させるべきなのですが、こうしたバラツキの問題に直面すると、必ずきまって、すぐ「平均」がでてきます。②は誤りです。商品価値を規制するのは、偶発的要因を除去した「一般的費用」だとすることで、客観価値説は堅持されます。この考え方は、1970年代以降のマルクス経済学研究で、流通費用をめぐって深められてきたのですが、この種の偶発的な維持費・修繕費も同じことになります。

なお、労働が付随的におこなう「無償の維持」が強調されています。このあと

  1. 償却期間を短めにとり、修繕費を固定資本の摩損と合算する簿記手法の紹介
  2. 家屋の賃貸を固定資本の貸付と説明
  3. 自然災害に対する「保険」の費用

などが列記されている。

維持費と更新費の流動化

本来の修理と補塡との境界、維持费と更新費との境界は、多かれ少なかれ、流動的である。S.178

鉄道を中心に、この命題の事例が詳しく紹介されています。原理的にどう考えればよいのか、一般論を探ってみましょう。大きな設備投資がなされていて、そのメンテナンスに費用がかかる。必要な費用をかければ、設備は基本的に劣化することなく、新品と同じ状態で、あるいは多少は改良されて稼働し続ける。したがって、設備全体を更新する必要はないわけで、補填のための費用はゼロ、あるいは維持費が事実上の補填費である、ということになります。『資本論』は事例の紹介からどういう結論を引きだしているのか、よくわかりません。本来費用として計上すべき維持費を、補填のための積立金に紛れ込ますことで、利潤を水増しし、配当をふやそうとするのだ、「老巧な管理者たちが配当の獲得のために、修理および補塡という概念をどれほど広い限界内でうまく運用するかについて、 ここに一つの証拠がある」(S.180)というのです。

しかし、この「修理と補塡」の流動化はもう少し積極的に評価し原理的に活かす余地があるとと私は考えています。極論ですが、投下と回収の期間の長短にかかわらず、生産に投下された資本はすべて一種の「永年耐久性をもつ工事」Werke von sekulärer Dauer(S.191) として一括処理すればよい、つまり、これは「性能劣化論」ではなく、維持費という「費用つきの性能不変論」になる、という結論になります。要するに、固定資本・流動資本の区別をするより、投下資本と支出費用の区別を厳密におこなうほうが、利潤をめぐる諸資本の競争を解明する基礎理論としては有効性をもつ、というのが私の立場です。詳しく知りたければ当日質問してください。

信用制度との関係

最後にワンパラグラフ、償却資金の積み立てと支出を蓄蔵貨幣と流通手段の関係に結びつけたあとで、信用制度に論及しています。

信用制度が大工業と資本主義的生産との発展に必然的に並行して発展するにつれて、 この貨幣は、蓄蔵貨幣としてではなく 資本として機能するが、しかしその所有者の手中でではなく、その運用をまかされた他の資本家たちの手中で機能する。

戦後の一時期、第三部第五篇の「貨幣資本家」が「機能資本家」に貨幣を貸すという「利子生み資本」論では激発恐慌が説明できないと批判し、蓄積資金とともにこの償却資金が、産業資本の内部で相互に「融通」される関係として信用論を再構築しようとする流れが生まれました。その一つの拠り所とされた一節です。パチリと一枚、記念撮影をして今日は解散、長々ごくろうさまでした。

『資本論』第二巻を読む:第8回


  • 日 時:2019年 12月18日(第3水曜日)19時-21時
  • 場 所:駒澤大学 3-802(三号館の奥のエレベータで8階に)
  • テーマ:『資本論』第2巻 第2篇第7章
第7章「回転時間と回転数」
第2篇「資本の回転」にはいります。第7章「回転時間と回転数」は短い章ですが、「回転」という概念の基本を捉えかえしてみたいと思います。

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『資本論』第二巻を読む:第7回


  • 日 時:2019年 11月20日(第3水曜日)19時-21時
  • 場 所:駒澤大学 3-802(三号館の奥のエレベータで8階に)
  • テーマ:『資本論』第2巻 第1篇第6章
第6章「通流費」
この章も、現代的な経済原論が形成されるようになってゆく契機になった重要な章です。1960年代以降、一方では信用論研究が、他方では価値形態論の研究が活性化していったのですが、両者の交点として、前章の流通期間や本章の流通費用に関心が集まるようになりました。『資本論』が、ともかく流通期間や流通費用という、古典派経済学では — そしてその後の経済学でも— ほとんど論じられることない、「流通」(本質は「販売」)が理論の表舞台に登場させたことは画期的です。

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