伝送便カレッジ 第4回

市民を対象にした講演、参加自由(銀座経済学研究所の受託事業)

日時:2013年7月28日(日)午後2時00分〜5時00分

場所:東京大学経済学部 小島ホール 1階セミナー室

講師:小幡道昭(東京大学経済学部教授)

テーマ:協業と分業(続) — 協力のゆくえ —

第3回の続きです。最終回ということで、資本主義的生産様式の基本形態とをなす「協業」の問題を検討してみます。

前回は『資本論』第1巻の前半部分における「表の論理」である「搾取論」の論理構成の背後に、どうやら「もう一つの論理」が読みとれそうだ、という点について、参加者と議論してみました。ちょっと面倒な話ですが、20世紀の社会主義の基盤を形づくってきた問題を問いなおすにはここまで遡ってみる必要がある、ということであえてむずかしい問題をぶつけてみました。

こうした議論をするためには、『資本論』がなぜ「難しい」のか、その理由から考えてみることが必要です。すぐわかるように読み変えて、わかっても、わかったことにはならない。『資本論』にかぎらず学問的な書物を「読む」ということはどういうことなのか、「わかる」「知る」「変える」はどういう関係にあるのか、といった基礎の基礎のところから考えてみました。

『資本論』が難しいのはなぜか?それはおそらく、『資本論』が見える世界と見えない世界という二層の構造を明らかにしようとしているためではないかというのが私の理解です。市場と生産、つまり、商品どうしの関係と、労働力と生産物の関係、この二つの「関係の関係」を論じているところが難しさの根っこにある。4時間分の賃金をもらって8時間労働する、という関係は、商品売買のかたちでおおわれている。労働の成果を直接目の前で取りあげれば、生産物の分配は一目瞭然ですが、生産物は資本によって販売され、労働者には賃金が支払われ、その賃金でさまざまな商品が買い戻される、こうした商品売買の世界を通じて、社会的な労働の世界が実現されているわけです。だから、二層の世界の関連を精確に捉える必要があるのだ、ということで、商品の価値と使用価値の区別にはじまる一連の込み入った考察が第1巻のはじめのところで展開され、それが労働力商品の価値と使用価値の区別を理解する伏線とされます。ここまでつなげて読み進む、つまり、いくつかの「契機」を通じた「展開」をたどる必要があるわけで、これにちょっと骨が折れるのはたしかです。

では、そうした苦労をすることで何がわかるのか。根底にあるのは、資本は「市場の等価交換のルールに反して」4時間分の剰余を手にするのか否か、という問題です。この問題を考えるためには、ここまで降りてみる必要がある。市場のルールに反するなら、「労働力商品にも等価交換をちゃんと適用することで搾取は消滅する」、つまり、「市場を通じた社会主義が可能だ」ということになります。では、この問いに『資本論』はどう答えたことになるのか?「逆だ。等価交換のルールが労働力商品にも貫かれるからこそ、8-4時間分が資本のものになるのだ」というのです。

市場の観点からみれば、「資本が4時間分の剰余を基礎に増殖するのは当然だ」といったときには、参加者から異論がでましたが、これはなかば予想した通りです。マルクスがそんな搾取を容認するようなことをいっているはずがない、というのです。「労働者は賃金を充分支払われていない、現実の賃金は不等価交換なんだ、といって、賃上げの必要を理論化してくれているはずだ」という意見です。「じゃ、等価交換になる賃金っていくらです?」「それは8時間全部、利潤が残らないところまで上がって当然なのだ。」「ではそういう、資本が存在しない、等価交換の市場を実現することで、搾取のない社会が実現できるのでしょうか?」

ここらへんが、『資本論』の展開を読みとるうえでの難しさが、具体的に現れてくるところです。『資本論』は、価値と使用価値の区別を明確にして、それをふまえて労働力の価値と使用価値をちゃんと区別できれば、労働力商品が価値どおりに売買されることで、剰余価値が資本によって取得されるのだ、と答えています。逆に、商品の価値と使用価値の区別が明確に理解されないと、剰余価値は不等価交換の結果だ、といった誤りにおちいるというのです。付け加えておきますが、私はこの説明が「正しい」といっていっているわけではありません。あくまで「解釈」です。

何でこんな屈折した議論をするのか。背後にあるのは、市場をめぐる当時の社会主義者たちの間の意見の対立でしょう。市場の原理をつかって、国家なき市場社会主義をめざすのか、あるいは、市場はかならず搾取を基礎としており、市場を残したまま、搾取をなくすというのはできない相談だ、というのか、この問題をめぐる対立です。『資本論』の精密な論理はたしかに強力で、ここから、市場の廃絶、計画経済を社会主義のコアにすえた20世紀の社会主義、マルクス主義が誕生したのです。ここで再度付け加えておきますが、これもあくまで「解釈」の問題です。計画経済=社会主義が瓦解した、だから市場社会主義のほうが正しかったのだというのは、どうみても単細胞的でしょう。社会主義をいまもういちど問いなおすには、『資本論』のこの最深部の論理にメスを入れる必要がある、というのがこの講義のネライです。

ついでにもう一言、こういう話の流れで「社会主義」といったら、ある別の研究会でシコタマしかられました。かつてマルクス主義に強い思い入れがあった方なのでしょうか、「社会主義がダメなのはもうわかったじゃないか、今さら未練がましく社会主義なんて言うのはやめろ」というのです。私はただ、「目の前に存在するこの資本主義社会から、次の社会も生まれる。資本主義はいま歴史的な大きな地殻変動の時期にある。生まれてくる社会主義とよぶのがいやなら、なんとよぼうとかまわないが、歴史は”なるようになるもの、変わるべくして変わるもの” 。そして、いまはどうやら、こうした歴史的な転換点にあるようだ。その意味を理解するのに、『資本論』の屈折した論理を再検討することはそれなりに意味がある。アタリマエのことをいっているだけです。」とかなんとかお茶を濁したのですが、「そんなのは社会主義じゃない」の一点張りでマイッタ、マイッタ。どんな社会主義かわかりませんが、20世紀のマルクス主義が標榜した「そんな社会主義」が、この国のある世代の人々の深層心理にしっかり刷りこまれているようです。社会主義というとプラスでもマイナスでもテンションがあがる、って人ごとながら — 「実はアンタがいちばんテンションがあがるんじゃないか?」って…..「そんなことありませんよ」 — 不思議な現象です。なんかうまくいえない呪縛がはたらくようで、このあたり、今後もじっくり観察してゆきたいと思っています。人間の社会的な価値観、イデオロギーというものの正体を知るうえで格好の材料になりそうです。いずれにせよ、そうしたイデオロギーが磁場としてはたらいているなかでは、『資本論』にはみんなが誤解している深い意味があるように見えたり、あるいは反対に、もう『資本論』は読むなんて無意味に見えたりするのでしょう。私は、過剰な期待や意味付与はできるだけおさえて、クールに、何が書いてあるのか、そして、書いてないのか、「解釈」し、読みとった内容が正しいのか、間違っているのか、「批判」してみることは、それ自身、おもしろいと思っています…

ということで、第3回はちょっと枕が長くなり(寝るつもりできたひとには好都合だったかも)、予定していた本題、つまり協業と分業の入り口までしか、進めませんでした。前々回の「労働過程」の意義と問題点、すなわち、人間労働を特徴づける目的意識的活動という認識の意義と、一人ひとりの個別的労働から、労働者間の労働のつながりが論じられずに終わっているという限界について、議論をしてみた、というところで終わりとなりました。今回は最終回ということで、「協業と分業」の本題に話を進めることにします。

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