『資本論』第一巻を読む 第4回

第3節「価値形態または交換価値」

この節全体を2時間で済ますのは無理ですが、私が長年慣れ親しんできたなかで ここがポイント!! と感じた点を、テキストに即して説明してみます。まず冒頭の3パラグラフをちゃんと読んでみます。

商品の「価値対象性」ってどういうものか、日本語訳だととてもとりつきにくいのですが…… おそらく、この対となっている用語を探してみるとヒントになるでしょう。S.76の第2パラグラフにでてくる「対象性」の説明もみてください。でも、この説明はちょっとこれだけ先に読んでもわからないかも…

価値の「現象形態」とか、「価値表現」という用語の意味をよく考えてみることが大切。これがたぶん最大のポイントなのだと思います。「表現」「現象」「現れる」さらに「現象形態」「表現様式」とかいった表記に気をつけて、読んでみる必要があると思います。

課題は「貨幣形態の発生を立証すること」。これがそれまでのブルジョア経済学ではできなかったというのですが、なぜでしょうか。これは先のことになりますが、註(31)(32)を先に読んでしまうのも手かもしれません。先回りして、読んでしまいましょうか。

A 「簡単な、個別的な、または偶然の価値形態」

1 「価値形態の両極 — 相対的価値形態と等価形態」

等価物で表現する、というのはどういうことか、考えてみる。「等価」という概念がむずかしい。「等価」ということがわかれば、「相対的」ということの意味は自ずとわかる。逆に、左辺のほうから順番に、「相対的」⇒「等価」の順で考えると理解しにくいと思います。どうしてか?

ここでも「表現」という表記がたくさんでてきます。等価物と表現の関係がわかれば、このあと、かなり読みやすくなります。このあと、しばしば 等号=がでてくるのですが、この等号を文字通り数式ととると、それは「表現」ということの意味を知るうえでは邪魔になると思います。5+4=9 を9は5+4を表現しているとはいわないでしょう。「表現」の意味をもっとうまく表現(?)するにはどうしたらいいでしょう…. 現場で話します。
実はもう、第2回の6.で書いたことでした。「等しい」 equal と「同一 」same を区別するとわかる、と …

2「相対的価値形態」

a「相対的価値形態の内実」

いきなりタイトルに「内実」と意味ありげな用語、日本語ではこんなときは内実とはいわないでしょう。「内容」と訳してもピンときません。こういうときは、ここでも一歩引いて対を探してみるとわかります。これも後は現場で…..

リンネル20ヤール=上着1着 で、どうして上着なのか、という質問。それはこの項目の題に「偶然の価値形態」って、あるとおりです、なんて答えたのですが、これじゃ不親切ですよね。次回、どう考えたらよいか、説明してみます。ただ、これがリンネル1商品だけの価値表現で、上着の価値を表現するものではないこと、一方的なプロポーズで、上着は一方的にその相手にされただけ、それなのに、いや、それだからこそ、上着にyes/noをいう権利が生まれたこと、このあたりが、何でも買える貨幣、の性質を理解するカギだ、ということ、など、強調したとおりです。

でもこれ(「内実」対「量的規定性」)はけっこう問題を含んだ「対」のたて方だと思います。正直いって、あまり賛成できません。

「価値物」(S.64)とは何か、その概念規定を『資本論』のテキストのなかに探してみよう。…. S.66 冒頭あたりを読むと…

「価値物」は価値を表現する側の商品の一方的なプロポーズでそうなる。表現しようとしているリンネルにもちろん価値対象性がないとだめだけれど、それを感性的な領域で表示するのに使われる等価物は、それ自身としては価値がなくてもよい、のではないか、という質問。難しいところですが、やはり単なる等価物ではなく、上着を価値物として等置するのであって、上着に一定の大きさの価値が内在することが不可欠なのではないか、と答えました。実は、この価値物が貨幣になるわけで、この問題は、貨幣はそれ自身価値をもつものでなくてもすむ、媒介物なのだから、それ自身は無価値の紙券(証書)でよい、貨幣は記号でよい、といった象徴貨幣論と向き合うとき、重要になってくるポイントです。

このあと、何かで何かを表現する、という問題が、いろいろな比喩をつかったり、かなりレトリカルに語られてゆきます。ある意味、『資本論』らしいところなのですが、説得のためのサービスだと私は思って読んでいます。言わんとする何かがあって、それを手を変え品を変えて表現しているのだと…. これしか説明のしようがない、その意味で、この説明自身が真理だ、というものではなく、いろいろなかたち表現されようとしている何かを知るための手がかりでしょう。ただ、こんなふうな巧みな展開はとても私にはできません。この部分は、やはり『資本論』の圧巻でしょう。

b 「相対的価値形態の量的規定性」

ここは「内実」の項と比べると、単調な場合分けで面白いという人にあった覚えはありません。こういう「量的規定性」になってしまうのは、さっきもいったように、対比のつくり方のせいではないでしょうか。

3「等価形態」

基本的な問題は、2「相対的価値形態」で、今までのところで述べられている。この項のはじめのパラグラフはまとめになっている。これまでのところがわかっているかどうか、読んでわかるかどうか、チェックしてみよう。

このあと、第1に、第2に、そして第3に、というように、等価形態の「独自性」が列記されている。これもまとめ的な性格のものだとおもいます。

第3の独自性、私的労働が社会的労働して現れる、という点は、このあとに再論されます。どこででしょうか。

このあと、アリストテレスの価値形態論もどきに対する論評が続きます。アリストテレスは価値形態論をせっかくみつけたけれど、これを「実際の必要のための応急手段」としてしまった。「共通の価値実体」すなわち抽象的人間労働が実在しなかったからだ、というのです。これに対して、ある先生は「共通の価値実体」がなくっても「形態」はみつかった、こっちの事実の方が重要なのじゃないか、といっていましたが…

4「簡単な価値形態の全体」

ここもまとめではじまっています。はじめに商品の二要因を使用価値と「交換価値」といったけれど、ほんとは使用価値と「  」だった、「交換価値」というのは「  」の現象形態、表現様式、すなわち「    」のことだったのだ。この空白に何が入るかは第1節と第3節のタイトルをもう一度見るとわかります。

このあと、量的側面、質的側面の対で、重商主義者、自由貿易論者がそれぞれ一面しか見ていない、という話。この対は賛成できませんが、マルクスのようにこううまく色分けされると、ちょっと靡きます….

ということで、今回は A 「簡単な、個別的な、または偶然の価値形態」を読み終えたことにして、次回は、この節の B, C, Dの項を読み、価値形態論を卒業します。ごくろうさまでした。