「私のマルクス経済学改造論」へのコメント

矢沢国光「私のマルクス経済学改造論」(『情況』2014年7−8月号)をいただいたので、即興でコメントさせていただきます。

添付のファイル、拝読しました。いろいろ申し上げたい点もあるのですが、とりあえず、2点ほど。

一つ目は、昨日、議論した点の続きになりますが、価値概念についてです。たしかに、わかったようなわからぬような『資本論』解釈、哲学的粉飾ならぬぐいさる必要がありますが、それだからといって、ただちに、いただいた添付ファイルの9ページ末にある

「価値」という一見現実離れした観念も、計測可能な経済的概念と結びつき、…

という結論にはならないと思います。「価値対象性」— 価値表現 — 価値物 のような関係は、やはり、計量可能な感性的世界だけで済ますわけにはゆかないと、昨日お話しました。貨幣の本質を知るうえでも、貨幣価格と区別された価値という概念はけっこう「役にたつ」と思います。ちゃんと使えば…ですが。

二つ目は、信用創造についてです。私も信用貨幣を含めて原理的な貨幣の概念をつくる立場です。本来の貨幣は金属貨幣で、不換銀行券は国家の強制(ほんとうは強制では貨幣は授受されたり保持されたりしませんが)で流通しているというのは誤りだと考えています。ここらあたりまでは、最近では、マー、いいだろうといってくれる人も多いようです。

問題はその先で、信用貨幣なら「信用創造」でいくらでも、そこまでゆかなくても、国民経済の状態が健全ならどこまでも、創造できるという考え方に対しては、逆に自制すべきだと考え、反対です。2ページの

中央銀行体系の中で「無から有が生ずる」信用創造とみなければならない。

といいたくなるのはわかるのですが、信用貨幣と国家紙幣との区別は明確にすべきです。『価値論批判』の第2章あたりで述べたことです。

もう一つ、ついでに。
段階論に興味をおもちのようですが、宇野の三段階論は根本からやり直さないとだめだ、というのが私の考えです。前後に何かを付けたすのではたりないのです。金融資本の次は、超金融資本、というよう処理ではすまないでしょう。それには、宇野が三段階論を着想した原点にもどって、もういちど、資本主義の歴史的発展を捉える基本の枠組みから再構成する必要があると考えています。話せば長くなりますが、ポイントは、既存の三段階論は、ドイツ、フランス、そして日本など、近代国民国家の生成発展と結びついた、ナショナルな後発資本主義諸国の勃興(19世紀末の)をターゲットとしたものだったという点にあります。これではすでに合衆国が視野にうまく収まらなかったのですが、現代では、さらに、本来資本主義化などこれ以上進まないと考えられていた地域で、巨大な人口を抱えた新興国が台頭している事実が、爛熟・没落論ではとても捉えきれない、ということです。どう再構成したらよいのか、これは『マルクス経済学方法論批判』で述べたところです。

これについては、宇野派の先輩諸氏から大目玉を食らっております。7頁の

宇野段階論は、ロシア革命の勃発によって第一次世界大戦で打ち切られ、それ以降の資本主義は「社会主義への過渡期」であり、経済学としては「現状分析の対象」とされた。宇野のこうした段階論に対して「ソ連の崩壊」をもって誤りであったとするのは安易すぎる。

というのを読んで、あることを想い出して笑ってしまいました。「過渡期」ということは、宇野弘蔵は絶対いっていない、これは宇野を貶めるための策謀、ためにする議論だ、といって、ある先生から二度にわたり、公刊論文でご叱責を賜りました。『マルクス経済学方法論批判』の第7章3「「没落期」と「過渡期」」を見るとだいたいのようすはわかると思います。