『資本論』第一巻を読む 第6回

第4節「商品の物神的性格とその秘密」

今回は、むずかしいと言われている物神性論のところを読んでみます。日本では、1960年代後半から、経済学の枠を離れて、いろんな議論がなされてきたところで、おそらく参加者の方々、一家言あろうかと思います。2時間ほどですむはなしではない、ということになりそうですが、今回は実際に何が書かれているのか、テキストを読む、ことに集中します。


順番に読んでいきます。まず
Para.1-2
商品の神秘的性格は、使用価値から生じるのではない。
この命題に関しては「感性的」という言葉がキーになっているように思います。どういう意味でしょうか?

「感性的」sinnlich の無難な解釈は、英語で言えば、sensible = perceptible の意味で、五感 five senses でわかる、という意味にとることでしょう。大森庄蔵先生がむかし、西洋哲学では perceptible な、つまり「知覚できる」世界(「知覚」というのも誤解しやすい言葉で、なんか「知識として知っている」ように思ってしまうのですが、逆で、アタマなんか使わなくても「感覚で知る」という意味のようです)を、知覚できないけれども「知っている」世界とはっきり区別するのが基本なのだ、そして、直接みたり触ったりはできないけれどもわかる、こういうのが「超越論的な」認識で、これが大問題なのだ(私はこれで「超越」の意味がわかった気がしました)、というようなことをおっしゃっていたような記憶があるのですが….この記憶は超越論的な認識なのか、あるいは、単なる思い違いなのか、わかりません。

それはともかく、別の訳書では「感性的な」は「感覚的な」となっているそうで、それのほうがよいかもしれません。「使用価値」(商品体)は手で触れる、感性的な存在であり、そこには「神秘的な性格」などなにもない。これに対して、「価値」のほうは「感性的」にしてかつ「非感性的」な存在だというわけです。単に非感性的である(数学なんか、思い浮かべてください)なら、それはそれで、ミステリアスなところはないのでしょうが、非感性的なものでありながら、同時に感性的でもある、という二重性格をもっている。価値形態論の頭のところで「価値対象性」はマダム・クイックリーとは違うんだ、といっていたところを思いだしてみてください。「価値」そのものは、どんなにいじくりまわしても、手で掴めない。にも関わらす、貨幣のかたちで目の前に現れる(現象する、表現される)。この見えないものが見えるかたちで表現される、という関係、この「取り違え」Quidproquo から、「物神的性格」(これも ←「謎的な性格」←「神秘的性格」というように格上げされているようですが…)が生じるのだ、と言いたいのでしょう。

その点で、Quidproquo を「取り違え」と訳すのも、日本語の語義上、ちょっと誤解を生むかもしれません。「違え」というと「間違え」とか「錯覚」とか、ほんとうはそうでないのに…という意味が含まれてくるかもしれませんが、さしあたり、この意味は除外して理解したほうがよいと思います。Quidproquo は、もともと something for something の意味で、等しいものと取り替えること、give and take なんて英訳もでてきます。現代の英語でも使うようで、シビアな交渉をしていて、「ここは譲るけれど、おたくもそこは譲ってよ… 」なんていう感じで妥協するのが Quidproquo な対処法、まさに「等価交換」の発想です。これは「取り替え」であって「取り違え」じゃないでしょう。

こうした「言い換え」的なQuidproquoなら、ある意味では、認識のしかた一般に通じる作用で、X is X はつねに正しいかもしれないけれど、何も意味しない、X について何か言おうと思えば、X is A ということにならざるをえない、ということになります。さっきの大森先生の話でいえば、unsinnlich なものは sinnlich なものとして「立ち現れる」のが普通なんだ、ということかもしれません。前々回、前回と価値形態論のところを読んだとき、価値形態=「現象形態」=「表現様式」ということだ、という点で強調し確認した問題です。

ここまでは『価値論批判』という本に書いておいた範囲なのですが、もう少し先があります。あの本では、ヤバくなりそうなので控えたのですが、sinnlich には、sensual (sexual,erotic) の意味もあります。五感で知覚できる世界とそれを超越した世界の二分法は、一見したところ、疑いようなく明白なようですが、じゃ、その感覚ってなに?どうやって感じているの?というように、その内面に立ちいると、実はなかなかむずかしい。また大森先生の話になりますが、「見える」っているけれど、どこで見えているのか、なんていっていました。脳のなかではじめて「見えた」ので、それまでは刺激の信号が流れているだけだ、いや、光の刺激が網膜にあたって、神経に伝わる信号に変わったときだ、とか、いや水晶体を通過したときだ、いや、その光が外的な対象から発したときだ、とか、見える過程をいくら客観的にたどっても<「見える」ということは見えてこない>なんていっていたような記憶があるのですが… メルロー・ポンティーに『知覚の現象学』というのがあって、これも身体のなかに知覚がどう現れるのか、追求していておもしろい本でした。手を失った(足だったか…)人が、その「ない手」の痛みを感じる、なんていう話が出ていたような気がします。この感じ方の世界は、どうも不可思議なところがある。それが一番強く現れるのは、sexual な感覚でしょう。これはもう実感として…. 価値形態論から物象化論へのテキストは、二重底のかたちになっていて、表の意味で読める(sensibleの層)と同時に、もう一段底のところ(sensualな層)に、読み換えられるかたちになっている。こっちは、やはり、ちょっと錯覚とか、倒錯とか、次元の異なるものの間の<転化> Verwandlung (カフカの小説『変身』のタイトルで、人体が虫になるっていう感じです)の問題がありそうです。こうした倒錯という側面が、物神崇拝 Fetischismus を物象化 Versachlichung から分かつ契機になるのではないか、と思っています。2014-11-24

Para.3-4.
商品の謎的な性格は、商品形態から発生する。
ここで「商品形態」というのは「労働生産物の商品形態」という意味です。『資本論』には「商品の価値形態」というのと同じ意味に使っているところもありますが、ここは労働生産物が商品になるという意味で「商品形態」といっていると解されます。宇野理論はこのあたりで物神性論からちょっと遠ざかってしまたわけです。なぜでしょうか?

要するに、物象化論の対象が、商品の価値形態から、労働の問題に転換されてしまったわけで、予め「労働価値説」を前提してしまったことが、価値形態論本来の問題の考察を制約してしまった(たとえば、価値形態の等号に、逆の関係を含ませてしたまったところに、重大な限界がある、といった認識)という宇野の考えからすれば、「労働生産物の商品形態」も論じにくくなるのが自然な道理です。

よく議論にされてきたのは「取り違え」Quidproquo ってなにか、という問題です。みなさんもいろいろお考えがあると思いますが、私の理解のしかたも述べてみます。

これについては、上でのところで説明してあります。

Para.5-9.
商品世界の物神的性格は、商品を生産する労働に固有な社会的性格から生じる。
すなわち、<「私的労働」が交換を通じて結果的に「社会的労働」として現れる>という命題です。ここで物神性論のなかみが、私的労働・社会的労働論に限定されます。ここを読むときのポイントは、「現われる」erscheinen, appear でしょう。「反映する」 spiegeln というのもあります。

Para.6-15.(S.94)
認識は対象の発展と逆の過程をたどる。
たぶん、『経済学批判』の「序文」などでいわれていた上向・下向と同じような発想でしょう。(1)充分発展してから、はじめて気づく。(2)そこから遡ると、過去は未発達でプリミティブなものにみえ、(3)いま認識した現実が自然なものに見えてしまう、この最後の(3)のステップがイデオロギー化作用です。説明が面倒なので、詳しくは現場で話します。

この例解として、資本主義以前では…. といって、ロビンソン物語から、自由な人々のアソシエーションまでの話が続きます。ここは読めばわかります。最後のアソシエーション論は、多分、おなじみでしょう。

Para.16-19.(S.95からおわりまで)
古典派経済学は、価値と価値の大きさの分析はできたが、価値形態の理論は発見できなかった。
<認識は対象の発展と逆の過程をたどる>ことの例解とみてもよいのですが、
物神性の内容が、私的労働・社会的労働から、価値の表現形態としての「価値形態」に移っています。宇野理論の人たちにとって、こっちは、まー、OKかな。とくに註(32)はお気に入りで、価値形態、あるいは「形態」としての商品流通を、生産論に先行して説く方法のヒントにしてきました。そう読んでよいかどうか、考えてみましょう。

後で質問がありました。一つ目は、物象化と物神化とどう違うのか?二つ目は労働価値説と物象化の関連で、とくに投下労働価値説、支配労働価値説の関連など説明してほしい、ということでした。二つ目は時間がないから、次回、ということにして、一つ目については、いちおう話してみました。

Versachlichung と Fetischismusの区別ですか。 前者の物象化については、卑近な例でいえば、たとえ同じ椅子でも、マルクスが座った椅子だと特別な意味をもっているような気がして、プレートを貼ったりしてあります。モノが多かれ少なかれ、社会的な意味を帯びるというのはごく日常のことで、逆に、そうした意味付与されない無機質なモノの世界に囲まれたらひどく混乱するでしょう。このあたりで物象化論は、克服されるべきとされる疎外論と逆になる、というような話をして、高校生の頃、疎外論にちょっと馴染んでいい気になっていたら、そのあと、そんなんじゃダメだ、と物象化論者の大学生に批判された経緯など、思い出したりしてしまいました。

物神崇拝のほうは、やはり、手段の目的化のような、ある種の転倒性がこれに加わるのでしょう。しかし、物神崇拝のほうも、別に野蛮だから生じるという話ではない。このあたり、一種屈折した自己批判になるところに、積極的な意味がでてくるものです。つまり、文明化されたヨーロッパ、あるいは現代社会だって、あるいはむしろ、こっちの方が強いFetischismusにさいなまれている、といった再発見です。貨幣でものを買っているすがたは、それを使ったことがない人間からみたら、謎めいた行為で、いわんや、貨幣を溜め込むような行為は、トーテムを拝むことの100倍くらい、フェッティシュでしょう。ということで、このあたり、話しだしたらきりがなさそう、10分超過してしまいました。

二つ目の問題は覚えておいて次回に答えます。