『資本論』第一巻を読む 第8回

第3章「貨幣または商品流通」

第1節「価値の尺度」

本年もよろしく。今回から貨幣の章に入り、あと3回でこの章を終える予定です。ちょっと、せわしないですが、ポイントを押さえる感じで進めたいと思います。

第1節は「価値の尺度」というタイトルで、この貨幣の第1の機能は「商品世界に価値表現の材料を提供することだ」といきなりいっています。ぼんやり読むと、これは第1章「商品」第3節「価値形態」と違いがないようにみえます。価値表現の材料を提供するという「価値の尺度」は、商品の価値が貨幣商品によって表現されるという「価値の形態」と、いったい、どこがどう違うのでしょうか、一言でいって…

■貨幣の生成論と機能論

一言でいえば「価値形態論は貨幣の生成論、価値尺度論は生成した貨幣の機能論だ、ハイおわり!」後は何も言わずに帰るのが一番よいのかも….商品論は商品のなかから特定の商品が貨幣になる、という話で、こうして貨幣が独立に存在するようになったとき、それはどういう働きをするのかを論じるのが貨幣論、その第一機能が、商品の価値を表現する価値尺度だ、ということで、問題なさそうにみえます。しかし考えてみると、「すべての商品がある特定の一商品を貨幣にして価値を表現する」という「価値の形態」と、「貨幣が商品世界に価値表現の材料を提供する」という「価値の尺度」って、けっきょく同じことじゃないか、といわれると困ります。

「商品が貨幣で価値表現する」こと(価値形態)と「貨幣が商品の価値表現の材料になる」こと(価値尺度)との間にどんな違いがあるのか、厳密に読んでみましょう。

■価格形態の独立性

はじめの4パラグラフ、特に第4パラグラフをよく読んで解釈してみたいと思います。① 金=貨幣商品の想定と、② 註にあるオーウェンの話は後まわしにします。価値形態と価値尺度の区別は、ここでいちおう具体的に示されています。書いてあるのは、価値形態では、貨幣形態になっても、いろいろな商品の価値形態が「隊伍を整えて行進する」が、価値尺度では、単独の価格形態でOKになる、という区別です。しかし、貨幣形態では、単独だと価値表現にならないという理由ははっきりしません。

■価値の表象と表現

第5パラグラフは、むずかしいですが、先に結論をいっておきます。ポイントは、「商品の価値を表現するには生身の金(貨幣材料)はいらない。でも、貨幣素材は素材なんだから、やはり実物がなくてはならないのだ」ということす。もうちょっというと「金は目の前になくてもいいけれど、でもこの世のどこかに実在しなくてはてならないのだ」というのが趣旨でしょう。まだ、わかりにくい?つまり「どこにもそのもの Ding an sich が実在しない、ただの 記号 Zeichen じゃダメだ」という話です。貨幣に関しては、100円という単位をきめればいいんで、その100円の中味がなにかはどうでもよいのだ、というタイプの象徴貨幣論を批判しているのです。何で、こんなふうに読めるのか、せっかくだから、現場で、時間をとって読み説明します。

「価値尺度機能のためには、ただ表象されただけの貨幣が役立つとはいえ、価格はまったく実在的な貨幣材料に依存している。… 1トンの鉄に含まれる価値…が、….貨幣商品の表象された一定分量によって表現される」(S.110 註(51)の直前)この文は対照的な対概念で構成されています。内在する価値を「表象」するには「観念的」な貨幣でよい、表現する価格には「実在的」な貨幣が必要だ、ということでしょう。表象価値尺度で、表現価値形態という区別が、が厳密に読みとれるか?

このあたりを本気で読むなら、言葉に気をつけないと、これ以上進めないように思います。「表象」っていうのはどういうことが、考えてみる必要があります。vorstellen に当てられた、わけのわからない「表象する」という訳語を剥がして、どういうことをいっているのか、中味を考えてみるのです。こういうのは、辞書を引いて、別の単語に置き換えてもダメです。ヘーゲルが似たようなことをいっている、なんて博識に訴えてもダメでしょう。こうしたことは考えるヒントになるかもしれませんが、それ以上でも,以下でもありません。必要なのは、ヨコに言い換えるのではなくって、自分の頭でタテに掘り下げる気力です(って、ちょっと言い過ぎ….)。私は「これならわかるはすだ!」って思っている、ちょっと自信がある説明の仕方があるのですが、それは、読書会にきてくれた方を相手に現場で実験してみます。お楽しみに…

vorstellenの用法

■金貨幣の想定

さて、マルクスは冒頭で「私は、本書のどこでも、ことを簡単にするために、金を貨幣商品として前提する」といっているのですが、あとで(註52の次のパラグラフ)金と銀とが同時に価値尺度に用いられるとどうなるか、議論するわけなので、単に「前提」というだけでは済まないのではないかな、と思います。問題は、価値の表現形態としてみたとき、その材料になる貨幣が「一つ」だというときの、「一つ」の意味です。…. むずかしいですが、ちょっと、考えてみましょう。

たとえば、金か銀か、という貨幣の素材が一つになることでしょうか?それとも、素材なら、金と銀と….でもいいが、貨幣名がポンドとかシリングとか、共通の単位をもつことでしょうか?

■質・量分離論

もう一つ、オーウェンの話を持ちだして、暗にプルードンの「労働貨幣」を批判している註(50)についても考えてみましょう。以前の回で、先回りして質問があったとところです。市場社会主義の可能性や、地域通貨との関連などで、最近、あちこちで論及されている註です。この註の含意は、一言でいえば、プルードンは「私的労働」と「社会的労働」の区別がわかっていない、ということになるのでしょう。

これは、すでに「商品の物神崇拝的性格」の節で論じられていた問題です。「私的労働」がいきなり価値の実体になるのではない、それは貨幣を用いて価格として表現され、この過程を通じて「社会的労働」になるのだ、という筋の話です。物理学的な尺度で10時間かかったからといって、そのまま10時間かかった他のどの商品とでも等価交換できるというわけではない、労働時間をそのまま表した「労働貨幣」ではダメなのだ、という話になります。

この話をすごく高く評価する人も多いのですが、私はなんかヘンだな、と思っています。「時計で計れない時間を導入するのはナシです」っていうと、そんな量にこだわるからイカンのだ、質が問題なんだ。大事なのは、量じゃなくって、比べられるという時間の同質性なんだ」なんて怒られるのですが、だけど、この量と質の分離論っておかしいと思います。「どういう比率でもよい、とにかく等置するということは、質的に等しいのだ」というのはないでしょう。そんなこといったら、なんだって、質的には等しい、ことになる。「等しい」という言葉は、特定の量関係においてはじめて「等しい」ので、その量関係でなければ「等しくない」のです。質的には等しいが、量的には等しくない、って、やっぱりなんかヘンだ。

ということになるのですが、実は、この質・量分離論は、このあと註(62)の後の長いパラグラフで展開されています。有名なパラグラフです。価格形態は、価値と価格の量的不一致を許す、これは価格形態の欠陥ではなく、市場で社会的再生産を編成するため不可欠なことなのだ、というのです。私はかつてこのパラグラフのなかにでてくる「無規律性」という表現を、変動つねなき市場の特徴を表現するためにつかったのですが、最近、ちょっとマズかった、と思っています。「無政府性」という言葉は、ふつう「生産の無政府性」の意味でつかわれています。市場の変動は、「生産の無政府性」を反映した受動的な変動ではない、生産がうまく調整されていても、市場自身が独自に変動する、この後の変動常なき市場の性質をなんていったよいか、いろいろ、思いあぐんで「生産の無政府性」じなくて「市場の無規律性」だとよんで区別してみたのですが、最近はこのような価値を重心にした価格の絶えざる変動という通説的な理解を棄却して、価格の下方分散論にたっています。ここらへんを説明する時間はありませんが….

■価値の尺度と価格の度量標準

先回りしたうえに脱線してしまいました。『資本論』のテキストでは、このあと、「価値の尺度」と「価格の度量基準」 の区別が論じられています。註(54)の後のパラグラフです。この区別は、「価値の尺度」と「価値の形態」の区別よりは簡単です。註55をみると、measure of value とstandard of valueになっていますが、価格の度量基準なら、standard of price でしょう。価値形態と価値尺度の区別と違って、こっちの方の区別は単純です。「価格の度量基準」というのは、貨幣の単位をどうきめるか、という度量衡の問題でしょう。「金1トロイオンスを\pounds 3 ~17s. 10\frac{1}{2}d.とよぶ」とか「純金0.75グラムを1円とよぶ」という単位の定義の問題です。ある商品の価値を金貨幣で表せば、一定の金量になりますが、この重さに異なる価格の度量標準が用いられることで、xポンドになったりy円になったりするわけです。

■価格形態

このあと「さて、価格形態の考察にもどろう。」(S.114)といって、価格形態が問題にされてゆきます。先回りしてみた、価値と価格のズレの可能性を論じた後、終わりから2番目のパラグラフで、価値尺度と価値実現の問題が取り上げれています。時間があったら、ここも読み込んでみたいと思います。

1 thought on “『資本論』第一巻を読む 第8回

  1. 小幡 道昭 投稿作成者

    「価値形態では、貨幣形態になっても、いろいろな商品の価値形態が「隊伍を整えて行進する」が、価値尺度では、単独の価格形態でOKになる」理由は…..

    大学院の院生の人たちと考えてみたのですが、けっきょく、価値表現というのは、すべての商品が貨幣で価値表現しているという<環境>(状況とか、状態とか、場とかいうのがよいかもしれないが)のなかで、他との関係を媒介に、自己の表現も成り立つ、これに対して、価値表現に材料を提供する「価値尺度」では、単独の形式でよい、という意味ではないか、といった話になりました。

    これでわかることは、価値形態と価値尺度は、やはり、どこか違う。同じ事態を商品の側から、貨幣で価値を表現する、と見るか、貨幣の側から、商品に価値表現の材料を与える、と見るか、の違いには還元できないだろうということでした。

    宇野弘蔵は、これを表裏の問題と見て、これでは貨幣の独自の機能として、価値尺度を規定したことにならないとして、貨幣による購買こそ、独自の価値尺度機能だ、という方向に議論を進めたわけですが、これが妥当であったかどうか、また来週、議論しようということになりました。

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