『資本論』第1巻を読む II 第5回

第5章 第1節「労働過程」

第4章「貨幣の資本への転化」は、この一つの章だけで、同名の第2篇を構成しておいます。ちょっとちぐはぐな感じなのですが、続く第5章から第9章まで、今度はかなり長い第3篇「絶対的剰余価値の生産」を構成するかたちになっています。

この第3篇は続く、『資本論』最長の第4篇「相対的剰余価値の生産」と対になっているのはすぐにわかりますが、これに第5篇「絶対的ならびに相対的剰余価値の生産」というのがついています。そして、さらに第6篇「労賃」そして最後に第7篇「資本の蓄積過程」で第1巻は閉じられる構成です。いずれにせよ、新しい篇に属する、今回読む「労働過程」は、構成上はこれまでの商品、貨幣、資本という展開から分離されているのですが、内容を考えると、第4章の末尾で、労働力商品を価値通りに買った資本家の後について工場のなかに入ってゆく、という一連の物語になっています。切れているのか、続いているのか、微妙な関係です。

で、思い切って切るべきだ、という人もいるわけですが、私もそうすべきだと思います。ただその人は、マルクスも「あらゆる社会に共通な労働過程」という理由で切っているというのですが、これはちょっといただけない感じです。なぜいただけないのかは、この後テキストを読みながら説明しますが、ともかく、『資本論』の全体構成を頭において、部分を精読する必要がありそうです。そうした目で見ると、この「労働過程」は現代の経済を考える可能性を宿しているのが見えてきます。たとえば、原発、自然破壊、コミュニケーション活動や情報/知識の問題など、既存の経済理論で捉えきれない現代的なテーマを拾い上げてゆくには、この「労働過程」から拡張してゆくことが不可欠です。このあたりも本文を読みながら説明してゆきます。かなり気合いがはいっていますが、テキストをしっかり読んでゆきましょう。

使用価値の生産

最初のパラグラフで「労働過程」は「使用価値の生産」という側面では「どのような社会的形態に関わりなく考察できる」というのですが、これは使用価値と価値の質量分離論の延長で、「マルクスも切っているじゃないか」といっても、経済の「原則」だから超歴史的にまず論じるべきだ、というその人が力説する理由ではないわけです。

労働の概念規定

第2パラグラフは、よく引用される部分です。労働を合目的的活動と規定するわけで、この規定は「生産」とどうつながるのか、考えてみたいと思います。労働=生産説への反省です。

労働対象

短い第3パラグラフで、三つの契機を指摘したのち、その2番目の「労働対象」(1番目の「労働そのもの」が第2パラグラフ)が第4パラグラフで論じられます。「土地」というのがでてくるのですが、自然環境と考えてよいでしょう。この後も繰り返し「土地」というのがでてきますが、意識的に読んで考えてみたいともいます。

労働手段

第5パラグラフは、第3の契機である「労働手段」を論じるながいパラグラフです。労働の本質を合目的性と抑えたところから、目的に対する「手段」が重視されるわけです。対象と手段はともにものであり、モノとモノが作用反応しあうのであり、労働は「過程」を外側からコントロールするという位置づけになっています。ヘーゲルの理性の狡知が引用されています。労働とはコントロールする活動だ、という観点は、労働力をエネルギーのように捉える労働観と決定的に異なります。この「制御」の問題は、20世紀の「情報」の理論と深く結びついています。

対象的諸条件

第6パラグラフでもう一度「土地」にふれています。「対象的諸条件」というのは、労働過程という変化のプロセスを可能にする「環境」のことです。これはなくてはならないのですが、変化しない条件です。つまり、土地は利用しても基本的に損耗しないけれど、小麦の生産には不可欠だ、という関係です。永久に使い続けられる<はず>の生産手段、損耗する生産手段ではなく「対象的諸条件」が労働には不可欠だ、というのです。人間の労働の成果とされる「労働手段」の陰に隠れて見えにくいのですが、「対象的諸条件」の規定はもっと明確にしておくべきでしょう。

生産物の立場

第7パラグラフでこれまでの内容をまとめた後、短い第8パラグラフで「生産物の立場」からふり返るという話になります。人間は、他者の労働の成果(モノ)を労働対象や労働手段にして労働することができる点が、このあと第8から第16パラグラフまで、さまざまな例をあげながら論じられてゆきます。労働過程と労働過程が、モノを媒介に、アノニマスに結ばれてゆく、こうしたことができるというのは、直接的なコミュニケーション活動をこえたかなり高度な社会性だというわけです。だれがつくったかわからなくても、それが使える、という関係です。第16パラグラフの最後の「切れないナイフ」の話はよく引用されるのですが、ポイントはモノを媒介にした、匿名性を帯びた社会関係の形成能力です。これはゴリラやチンパンジーにはむずかしいと思います。このタイプの情報処理が、社会的「分業」の基礎となる労働能力です。「労働過程」論のコアは、エネルギー源としての労働力の問題でありません。能力 ability が問題なのです。

生産的消費

新たな生産物を生産するために、生産手段は労働によって消費される、という「生産的消費」が第19パラグラフで規定されるのですが、第17-18パラグラフの「機械」の自動メンテの話もこの系論とみてよいでしょう。そして、第20パラグラフで「生産的消費」の連鎖の外側に、天然に現存する自然環境があることが指摘されています。自然環境とは書いてありませんが….第21パラグラフは、「生産物の立場」から「生産的消費」にかけての部分の要約です。

資本のもとでの労働過程

第22パラグラフで、労働過程は使用価値の生産という労働の一側面だから、資本が介入しても変化しない、というはじめの論点が繰り返されます。第23パラグラフから最後までの部分で、資本家による労働力の消費としての労働過程には、二つの特徴が現象するとして、第一に「資本家の管理」が、第二に生産物の資本貨幣の帰属という事実が指摘されます。労働者の労働を管理する資本家の活動は、労働なのかどうか、労働の本質を管理(コントロール)という点を中心にみると、ちょっとむずかしい問題が発生します。

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