『資本論』第1巻を読む II 第6回

第5章 第2節「価値増殖過程」

この章は、書かれている内容はむずかしくありません。はじめに簡単に概要を述べて、そのあと、ポイントとなる論点を二つあげて、いっしょに考えてみたいと思います。

一つは、搾取論の位置づけです。剰余価値は、商品経済のルールの蹂躙によってではなく、逆にそれに則って形成されるというのが『資本論』の搾取論です、この議論は『資本論』の体系全体のなかでどのような役割を担っているのか、という問題です。たしかに、「搾取」という言葉は、それを肯定する立場からでてくるものではないが、それが「不当だ」という主張はどのような論理で成りたつのか。これが第一のポイントです。

もう一つは、労働力の再生産に関わる問題です。きっかけはこの節の終わりのほうにでてくる、複雑労働が労働価値説と整合的かという問題ですが、このこと自体は些細な問題です。ただその背後には、「熟練を生産する労働」の存在が控えています。労働力に「再生産」という概念を適用するときに隠されていた「労働力を<生産する>労働」が、「熟練を生産する労働」というかたちで、ちょっと顔をのぞかせています。家事労働もある意味では、「労働力を<生産する>労働」の問題で、同じ系列に属します。そこには、資本の生産過程の外部において、労働者とその生活をともにする人々の「労働」が存在しています。労働市場と生活過程、この問題が第二のポイントになります。

価値形成過程

前半、第1パラグラフから第22パラグラフまでが、大きくいって、「価値形成過程」の話。

綿花10ポンド + 紡錘1/4 + 6時間の紡績労働 → 綿糸 10ポンド

「死んだ労働」24時間 + 「生きた労働」6時間 = 綿糸に対象化された労働30時間

生産手段12シリング + 1「労働日」の賃金3シリング = 綿糸 15シリング

というのが関係が基本。「労働日」working day という概念が馴染みにくいところかもしれないが、1日の労働時間で、それが何時間は「可変」と想定されている。6時間の労働というのは、労働者の1日の生活物資を生産するのに必要な労働時間。ここで生産をストップしたら剰余価値が生じないのは当然。

第7パラグラフにでてくる
「40ポンドの糸の価値=40ポンドの綿花の価値+まる1個の紡錘の価値」
というのは昔からわからないところです。

第20パラグラフにでてくる「前貸しされた資本の価値」といい、第22パラグラフの最初にでてくる「貨幣を….前貸しした」という。「前貸し」されるのは、資本なのか、貨幣のなのか、というのは細かい問題です。

ここでちょっと議論してみたいのは、第22パラグラフ。
いくつか、資本の増殖を正当化するイデオロギーが紹介されています。「節欲」「社会的役立ち」「資本家の労働」…. 資本とイデオロギーの問題、資本の価値増殖は正当かどうか、こうした価値判断の問題に対するマルクスの姿勢がよく現れていると思います。イデオロギーのレベルで、資本の「是」を説く論者のみならず、「非」を説く論者に対しても、あえて「冷淡」(シニカル)な態度をとっているように思えるのです。「資本主義は労働者の搾取のうえに成りたっている。だから、搾取されている労働者が、資本主義の廃棄を求めるのは当然だ」といった方向に話を進めることがない。これはあくまで読み手としての私の受け取り方ですが、いかがでしょうか。

価値増殖過程

第23パラグラフから第26パラグラフまで。

はじめに、商品としての労働力と価値と、労働力の使用価値としての「労働そのもの」の区別。第23パラグラフのはじめの部分、これでOKか、議論してみましょう。

綿花20ポンド + 紡錘1/2 + 12時間の紡績労働 → 綿糸 20ポンド

「死んだ労働」48時間 + 「生きた労働」12時間 = 綿糸に対象化された労働60時間

生産手段24シリング + 1「労働日」の賃金3シリング < 綿糸 30シリング

24パラグラフの終わりから25パラグラフにかけて。「手品はついに成功した。貨幣は資本に転化した。/ 問題のすべての条件が解決されており、商品交換の法則は少しもそこなわれていない。等価物同士が交換された。…」

第4章「貨幣の資本への転化」はここまで続く。ポイントは、「商品交換の法則」をやぶっていない、ということ。これが「搾取論」は、単なる分配論ではない。ここには、プルードンらの市場社会主義への批判が込められており、20世紀に市場廃絶論、社会主義計画経済へと展開されてゆくルーツがあるように思うのですが。逆に、今日の目で読み返すと、この転化論はどのように評価したらよいのか。

社会的必要労働と熟練

第27パラグラフから終わりまでは「価値形成過程と価値増殖過程」「労働過程と価値形成過程の関連」が形式的に論じられていますが、内容は、この節で繰りかえし指摘されてきた
「社会的に必要な労働量」の問題と
「複雑労働」の問題です。

マルクス自身は「複雑労働」にこだわるべきではない、という考えているように感じます。それでいいのかもしれませんが、現代の資本主義を考えると無視すべきではないという人も多いようです。私がこの点について、最近書いたものがあるので、これを材料にちょっと話してみます。

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