『資本論』第1巻を読む II 第10回

第8章 労働日 –その2

今回は「労働日」の後半、第5節から第7節までを読んでみます。今回も細部には踏みこめませんが、この章のもつ意義、『資本論』という書物の性格について考えてみたいと思います。

第5節 標準労働日獲得のための闘争。14世紀中葉から17世紀末までの労働日延長のための強制法

この節は、表題のとおり、二つの内容に分かれています。前半(註115を含むパラグラフまで。S.287)では、標準労働日がなぜ設定されるようになるのか、一般的理論的な考察がおこなわれ、後半では、国家のゲバルトで労働日を強制的に延長する試みが紹介されています。前半のロジックは面白い問題があるので議論してみたいと思います。

pgf1: 資本の立場からみると、労働日をどこまでも延長しようとする渇望がある。労働者が食事をするのは、ボイラーに石炭をくべるのと同じ… (手段と目的の転倒)労働者の寿命が短縮しても、1労働日の間に流動化させられる労働力が大きいほど有利だからだ(この論理は、労働時間をどんなに延ばしても、支払う賃金は一定である、という強い想定があるのではないかと思いますが….何時間になるかわからない一労働日全体を買っているのだ、という想定です。)

pgf2: 結果は、人間労働力の萎縮 Verkümmerung だけでなく、寿命の短縮

pgf3: しかし、労働力の価値は、ただ「労働力の再生産」ではなく「労働者の再生産」(人口の維持)を保証すべきもの。だから、短命化すれば賃金の上昇が必要となりそうだ。(賃金が増加すれば、人口が増えるという、古典派的な人口観がちょっと紛れ込んでいる気がしますが)「資本はそれ自身の利害によって一つの標準労働日を指向されられているかのようにみえる。」(って、かなり持って回った言い方になっていますが、要するに、これは外見 Schein で、やはりそんな標準労働日は資本の内部からでてこない、というのが以下の展開でしょう…これは一つの解釈ですが)Das Kapital scheint daher durch sein eignes Interesse auf einen Normalarbeitstag hingewiesen.

pgf4: ケアンズ『奴隷力』The slave power : its character, career, and probable designs, being an attempt to explain the real issues involved in the American contest, by J.E. Cairnsからの長い引用がありますが、要するに奴隷は外部からやすく調達できる、という話。

pgf5: 労働力だって基本は同じだ… ここでは外国人労働者の導入が想定されている、マルクスに身近なところだと、ロンドンのドイツ人パン職人。

pgf6: とはいえ「絶えざる過剰人口」eine beständige Übervölkerung は、「産業人口の退化」が不可避であり、吸収源である農村労働者も衰退させ、結局、食い止めることのできない人口の減少を予想させる。しかし、個別資本はそんなことはかまっていられない。「それゆえ、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命に対し、何らの顧慮も払わない。」Das Kapital ist daher rücksichtslos gegen Gesundheit und Lebensdauer des Arbeiters, wo es nicht durch die Gesellschaft zur Rücksicht gezwungen wird.(113) (この「社会」Gesellschaft ってナンだろう?むかし、大河内理論というのがあって、「個別資本の論理と社会的総資本の論理」というのを学生のころ、きいたのですが、たしかこの「総資本」は実は「資本」じゃなくて、中味は「国家」になるのじゃなかったでしょうか。)

pgf7: 要するに、標準労働日は資本の内部からでてこない(pgf3)、社会(国家)の調整なんているのも当てにならない(pgf6)、「標準労働日の確立は、資本家と労働者との間の数世紀にわたる闘争 Kampf の成果だ」というのです。そして、①資本が萌芽状態にあるときには、国家権力の助けをかりて労働日を延長するのに対して、②19世紀の後半になって、(子どもや女性の)労働日を制限するもに転じると指摘。この後、この節の後半部分で、①の歴史が紹介されています。

pgf8: 1349 最初の「”労働者規制法”」から1562エリザベスの法。「我が少年たちは、徒弟になるまで、まったく何もしない。」

pgf9-: 4日働けば一週間生きていけるのに、なぜ6日働くのか?という問題。(これは工業労働者、といっても職人のようなものでしょうが….にはあてはまるが「農業労働者たちは例外」といっているのが気になりますね。やはりマルクスには農業資本主義的な考え方があったのでしょうか?)これに対する対策として「理想的労役場 Ideal-Workhouse」1770「恐怖の家 Hause des Schreckens 」。この「理想」が「実現」した姿が「工場 Fabrik 」。

第6節 標準労働日獲得のための闘争。法律による労働時間の強制的制限。1833-1864年のイギリスの工場立法。

1760年代あたりに「大工業」が成立すると、労働時間の無制限な延長、夜間労働、児童労働など、ほっておくとめちゃくちゃなことになる。そこで今度は、労働時間に対する制限がはじまる。

1833年「工場法」(S.295):児童労働に対する制限。リレー制による脱法行為。

1844年「追加労働法」(S.298):女性労働も対象に。註141の前の二つのパラグラフ(S.299)は、読んで解釈してみましょうか。「近代駅生産様式の自然諸法則」ってなんでしょうか?その定式化などが「階級闘争の所産」だというのはどう意味でしょうか?

1846-47年はイギリス経済史の新紀元Epocheを画する年。穀物法の廃止。チャーティスト運動と10時間労働法案。

1847年「新工場法」(S.300)年少者および婦人の10時間労働。資本の前哨戦は失敗に終わり、1848.5.1に発行。資本によるさまざまな対抗措置 Schritt。

1850年の「工場法」マルクスは1849年の渡英後、この時期の動向には精通していたのであり、資本家の抵抗についてかなり詳しく書き込んであります。ただ主張の根幹はなんなのか、ちょっとみえにくくなっています。こうした労働日をめぐる闘争の先に、何がでてくるのでしょうか。階級闘争から革命へ?現実に生じたのは「工場主たちと労働者たちの妥協」Kompromiß zwischen Fabrikanten und Arbeitern (S.309) 「大工業諸部門における勝利」といっている終わりから二番目のパラグラフ、読んで解釈してみましょうか。

第7節 標準労働日獲得のための闘争。イギリスの工場立法が他国におよぼした影響。

pgf1-2: ちょっとレトリカルでわかりにくいのですが、こういうことでしょう。機械制大工業のもとでは、年少者婦人労働が利用されるようになり、そこでめちゃくちゃな搾取がなされるので、工場法は特殊な例外的な制限立法として現れるが、工場体制はその後広く、あらゆる産業に普及したので、もはや例外規定といっていられなくなった。

pgf3: イギリスが近代産業の祖国であり、標準労働日をめぐる階級闘争の先頭に立つ。

pgf4: フランス。イギリスに続く。普遍的権利として。

pgf5: 合衆国。「黒人の労働者が焼き印を押されているところでは、白人の労働も解放されない」という有名な決め言葉があるが、文脈上は重要な意味はない。そのあとにでてくる「8時間運動」を重視。

pgf6: 1866「国際労働者大会」(ジュネーブ)

pgf7-8: 労働日ははじめ無規定だったが、工場法というかたちで、「労働者たちは結集し、階級として一つの『国法』を…奪取しなければならない。」Welch große Veränderung! というのですが、この時期、第一インターナショナルの運動と絡んでいて、マルクスの主張がどういう運動の方向を指しているのか、理解するのがむずかしいところがあります。工場法のような労働者の権利拡張の運動を主張しているのか、それとも社会主義的な政治革命を考えているのか、『資本論』のこの箇所を読んでくると、どうも前者にシフトしているように思えるのですが、どうでしょうか。

第9章 剰余価値の率と総量

ついでに、この章についても簡単にみておきます。

もとになっているは次の関係式です。

剰余価値総量 = 剰余価値率 × 可変資本の総量

M = m’× V = m’× (k×n人)

① 剰余価値率が下落しても、労働者数を増やして可変資本総量を増大させれば、剰余価値の総量は維持できる。

②しかし、どんなにm’ を上昇させても、m’の増大でMの減少を食い止めることには限度がある。それはそうでしょう、V=0 になれば、m’が無限大でもM=0 になっちゃいますから。

③剰余価値量を決めるのは、剰余価値率と可変資本量であり、不変資本Cを含む資本量全体C+Vではない。このC:Vは産業部門の間で違いが生じ、増殖率は資本量全体に比例するという外観と一致しないが、この問題はいくつかの媒介をへて生産価格(この用語はでてきませんが)の規定で解決されるから、お楽しみに….

さらにこの後、貨幣に資本への転化には、最低限必要な資本規模が存在することが指摘されます。この関連で「近代的株式会社の先駆の形成」にふれています。

終わりに、形式的包摂(包摂 Subsumption subsumieren という言葉はでてきません。従属させるは sich ordnen でしす)実質的包摂に類する話がでてきて、実質的包摂のところで、労働のための生産手段が、剰余価値吸収のための手段となり、新本主義的生産にどくな転倒、逆転について、ペーズリーの亜麻・綿紡績工場の社長の投稿記事(1849.4.25)についてのコメントがなされています。このころ、12時間労働から10時間労働への転換がかなり広く議論されていたことをうかがわせます。シーニアの最後の1時間と同じ頃の記事です。

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『資本論』第1巻を読む II 第10回 への1件のフィードバック

  1. 小幡 道昭 のコメント:

    今日の読書会で、19世紀のイギリスの綿工業の実態(工場のしくみ)をもっと知りたいという方に薦めたのはこの本です。

    玉川寛治『『資本論』と産業革命の時代 — マルクスの見たイギリス資本主義』新日本出版社, 1999

    私もこの本で紹介されているオーウェンの工場、アークライトの工場、ホルムシャーの工場など見学してきました。「百聞は一見にしかず」なんて理論家がいうわけにはいかないのですが….

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