「自著を語る」を語る

「自著を語る」というタイトルで原稿を依頼され、恥ずかしながら恥ずかしげもなく、『労働市場と景気循環 — 恐慌論批判』についてこんなこと『変革のアソシエ』No.24,2016.4.)を書いてみました。なんで恥ずかしいのか、っていうと….

なんで恥ずかしいのか、っていうと、典型的な再帰パラドックスに陥るのがミエミエだからです。「かつて自著で語った《自分》と、これから自著について語る《自分》は、どういう関係にあるの?」って…

私はむかし、「おまえはXX先生のご著書を誤解誤読誤解釈しておるぞ、私は先生にその真意を伺っておる」とお叱りをうけたとき、「著書というものは、書かれた時点で客観的なテキストに確定されるのであり、このテキストに対しては、著者も他の読者と同じ位置にたつんだ、自著も他著も、真意もラッキョウもないでしょう」なんて、思わず見得を切った都合上、今さら「自著を語る」なんていうタイトルで書くわけにいかない身の上なのです。

少し真面目に取り組む気なら、「自著」の著者としてではなく、あらためて一人の読者として、その著書がどのように読めるか解釈し、読みとった命題の真偽当否を批判するべきなんでしょうが、残念ながらまだそこまで自分の研究は前進していません。やはり著者として、この本について解説めいたことしか語れません。すると、著書そのもの(P)と、この「自著を語る」で追加的に語ったこと(P’)とは、どのような関係にあるのか、第三者の目でみると、多分(P)と(P’)の間にズレがでてくるはずでが、当人の目には(P)も(P’)も一体のものであり、(P)を批判されると(P’)を読めばそんな批判は真意を誤解していることがわかるはずだ、といった話になります。

実は、マルクス経済学を長い間やってきて、この種のやりとりに、もうかなりウンザリしているのです。なにせ本家本元のマルクスがシコタマ草稿を残してくれたので…(草稿をたどってみるのが無意味だといっているのではありません。新しい理論を考える重要なヒントとなるでしょう。ただ、テキスト解釈で「それは誤解だ、ちゃんと理解してしていない…」と門前払いすることばかりが頭にあって、肝心の理論の真偽適否をトイメンで論じることを避ける、そういうタイプの議論のしかたにウンザリしているのです。こういっても、「やっぱり、あいつはマルクスをないがしろにしている」と反感をかうことは覚悟していますが。)

話が横道に逸れますが、その意味で、アダム・スミスが草稿や手紙を焼いちゃったのは卓見ですね。それでも、東京大学経済学部にはこのスミスの蔵書の一部があり、こんなものがあるだけで、「そこにある書込に、もしやスミス自身のものがありはせぬか、大部分は違うだろう….でもどっかにちょっとは、スミスの真意を示唆する書込が埋もれているんじゃないか」などとつまらぬ穿鑿をしてみたくなります。ただ私自身は、もっとアッサリと、理論は理論として論理を追求するのが第一で、それをだれがいおうと、真偽が変わらぬのが理論だと考えたいのです。もちろん、この「考えたい」というのは、論理的でてくる結論ではなく、ただのドグマ、あるいは私の好みにすぎないのですが…

さて、そんなわけで初々しい若者に「自著でちゃんと語れないから、あとで自著についてあれこれ語るんじゃないですか、それでまた、だれかに批判されると、実は私の真意はこうなんだ、なんて、弁明を繰り返す、そんなのアリですか?」なんて問い詰められると二の句が継げません。かといって、だから「ワタクシ(どんなクシだか?)は筋の通らぬ(この髪じゃムリだ)ことはキライです、自著を語るというタイトルじゃ、書きません」なんて苦虫噛みつぶしたような顔で断れば「まったく困った爺さんだ」ということになります。この種の頑固な爺さんたちに若いころ、さんざん苦労させられた私としては、この歳になっても、あんな爺さんだけにはなりたくない、とただただ願うのみ、ということで、恥ずかしながら語ってみた次第です。

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