『資本論』第1巻を読む III 第1回

第10章 相対的剰余価値の概念

「『資本論』を第1巻を読む」という読書会ですが、3年目に入りました。今回は第4篇「相対的剰余価値の生産」に進み、第10章「相対的剰余価値の概念」を読んでみます。短い章で、相対的剰余価値の概念自体については解釈で意見が分かれるところはそれほどないと思います。ただ、「特別剰余価値」や「強められた労働」をめぐっては議論が必要でしょう。さらに、個別と総体の関係の処理については、『資本論』の方法に関わる問題があると思うので、ここらを議論してみたいと思います。

相対的剰余価値の基本規定

pg.1-4の内容はpg.5 で「労働日の延長によって生産される剰余価値を、私は絶対的剰余価値と名づける。これにたいして、剰余価値が、必要労働時間の短縮およびそれに対応する労働日の両構成部分の大ききの割合における変化から生じる場合、これを、私は相対的剰余価値と名づける。」と簡潔にまとめられています。
(I)12時間c + 10時間v + 2時間m
(I’)6シリングc + 5シリングv + 1シリングm

(II)12時間c + 9時間v + 3時間m
(II’)6シリングc + 4.5シリングv + 1.5シリングm(1シリング=12ペンス)
となる説例が用いられています。

この箇所に関しては、コメント1をご覧ください。

資本主義的生産の内在的諸法則

pg.6-7の内容はpg.8で概括されています。

生産力の増大は、個々の生産過程で進むと考えるのではなく、全体で進むと考える必要がある。原材料生産部門でも、さらにその原材料部門でもというかたちで遡及して、社会全体で生産力が増大し、その結果、労働力の価値が生産力の増大に反比例して減少する事態を基本的に想定。このとき、生活手段の生産に直接間接に関わらない奢侈財部門での生産力の増大は労働力の価値を低下させることはないが…

「ここでは、この一般的な結果を、それぞれの場合における直接の結果であり直接の目的であるかのように取り扱うことにする。」

…….というのは、<例にあげたこのある部門と同じように、全部門で一律に生産力が上昇してVが減少した>と考えるという意味でしょう。こういう処理方法を一般に「代表単数」というようです。

「個々の資本家が労働の生産力を増大させてたとえばシャツを安くする場合、彼の頭には、労働力の価値を引き下げこうして必要労働時間をその分だけ。引き下げるという目的が、必ずしも浮かんでいるわけではない。しかし彼が究極においてこの結果に貢献する限りにおいてのみ、彼は一般的剰余価値率の増大に貢献するのである。資本の一般的かつ必然的な諸傾向は、これら諸傾向の現象諸形態とは区別されなければならない。」

これに続くpg.8 はよく読んで議論してみたいと思います。

「資本主義的生産の内在的諸法則 immanenten Gesetze が、諸資本の外的運動のうちに現われ、競争の強制法則 Zwangsgesetzeとして貫徹し、それゆえ推進的動機として個々の資本家の意識にのぼるさいの仕方は、ここでは考察されないが、しかし、もともと明らかなことは、競争の科学的分析 Wissenschaftliche Analyse が可能なのは、資本の内的本性 innere Natur  が把握されているときに限られるのであり、それは、天体の視運動〔観測者から見た運動〕が、その現実の、しかし感性上知覚しえない wirkliche, aber sinnlich nicht wahrnehmbare 天体の運動を認識する人にだけ理解されうるのとまったく同じだという点である。そうは言っても、相対的剰余価値の生産を理解するために、それも、われわれがすでに自分のものとした諸成果だけにもとづいて、次の点を指摘しておきたい。」

<個別主体の観点からは、現象 Erscheinung =仮象 しかみえない。「内在的諸法則」はこの仮象に惑わされることなく、「科学的分析」によってはじめて明らかにされる。この「内在的諸法則」を理解せずに、現象の世界、知覚可能な世界をいくら追いまわしても本質にはたどりつけないのだ>と読んだら、解釈として誤りでしょうか?私は、いちおう、ここでは現象・本質の二分論が前提されていると読みました。

私自身は『資本論』の一面を支配しているこの二分論に対しては否定的です。19世紀的などとレッテルを貼るつもりはありませんが、たとえば、価値形態論を読んでいると、こうした二分法の限界と同時に、それをこえる「表現様式」「現象形態」という新しいアプローチが隠されているのに気づきます。現象から離れて(現象を「捨象」して)はじめて明らかになる「実体」「内実」が存在するのではなく、どのように現象するのか、その現れ方を解明することで、はじめて浮かびあがってくる対象的存在がある、というのです。現象と不即不離の対象です。これは今度「経済理論学会」の『季刊経済学』に載る「商品価値の内在性 — 価値重心説批判 —」で述べたことですが、うまく書けているかどうか…

特別剰余価値

pg.8 で「個々の資本家の意識にのぼるさいの仕方は、ここでは考察されない」といいながら、pg.9-10 では、社会全体で生産力が増大する結果ではなく、その増大のプロセス、特定の生産部門の内部での部分的な生産力の増大の効果について論じています。

pg.9
(1)6ペンスc + 6ペンス(v + m) = 1シリング:12時間に12個:
(2)6ペンスc + 3ペンス(v + m) = 9ペンス:12時間に24個:

(1)が「個別的価値」=「社会的価値」となり(2)は「個別的価値」<「社会的価値」となり「3ペンスの特別剰余価値 Extramehrwertを実現する」。

「一労働日の生産物を売るために、彼は2倍の販路 Absatz を、すなわち2の大きさの市場 Markt を必要とする。他の事情が同じであれば、彼の諸商品は、価格の引き下げによってのみ、より大きな市場圏 Marktraum を獲得する。それゆえ彼は、その諸商品を個別的価値以上で、しかし社会的価値以下で、たとえば1個10ペンスで、売るであろう。」

投下労働価値説あるいは客観価値説にたったとき、このように価格を引き下げて販路を広げるということが一般に可能なのかどうか、他より価格を下げて販路を広げることができるとすると「独占」の発生につながる可能性があります。

pg.10 10ペンスに値引きして売るケース
(2’)6ペンスc + 4ペンス(v + m) = 10ペンス:1個
(2”) 12シリングc + 5シリングv + 3シリングm = 20シリング:24個

一般の労働が12時間に6シリングを形成するのに対して、(2”)では 5シリングv + 3シリングm = 8シリング をつくりだすというのです。

「例外的な生産力の労働は、力能を高められた労働 potenzierte Arbeitとして作用する —-すなわち、同じ時間内に、同じ種類の社会的平均労働よりもより大きい価値をつくりだす。」

しかし、このようなかたちで、「生産力が価値をつくりだす」ということを認めると、剰余価値の基本原理と矛盾する可能性がでてきてしまいます。12時間の労働がつくりだす価値は、生産力がどんなに上昇しても同じで、ただ生産物量が増え、その価値が低下するだけだ、というのが基本だろうと思います。

新しい方法が普及すると、
(2)12シリングc + 5シリングv + 1シリングm = 18シリング:24個
になるはず。ただし、5シリングの労働力の価値がこの上昇分低下すれば、その分だけ、5シリングv + 1シリングm =6 シリングの分割が変わる。

生産力の増大の資本主義的効果

pg.11-13 ではもう一度、社会全体における結果の世界にもどって総括している。
生産力の増大は、生活手段の価値の低下を通じて、労働力の価値を低下させ、剰余価値を増大させるだけで、労働日の短縮につながるものではない、これが結論となる。

「12時間という社会的平均労働日は、貨幣価値が変わらないものと前提すれば、つねに6シリングという同じ価値生産物を生産する。それは、この価値総額が、労働力の価値の等価物と剰余価値とのあいだにどう配分されるかにはかかわりがない。」

こっちが労働価値説による搾取論の基盤であり、「力能を高められた労働」はこれに背馳する可能性があると思います。こうした「過程」を視野にいれながら労働価値説を拡張するのが、理論的発展になるのか、あるいは、それはあくまで限定された条件のもとで、限定された命題を説明する理論として、頑健性を確保するほうがよいのか、これは理論の基本スタンスに関わります。私は、最近、あとのほうに傾いています。「マルクス経済学を組み立てる」をご覧ください。

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『資本論』第1巻を読む III 第1回 への2件のフィードバック

  1. 小幡 道昭 のコメント:

    読書会の席で次のような質問がありました。

    「(I)から(II)になることで、たしかに同じ12時間労働 v+m に対して10時間 v ではなく9時間 v で労働者の生活手段が再生産できるようになり、相対的剰余価値が形成されたというのはわかった。しかし、(II)をみると労働の生産力は上昇していないではないか?」

    というのです。「ごもっとも」というよりほかない指摘だと思い、

    「ここでは、この生産過程の外部で労働者の生活手段の生産がなされており、そこで生産力の上昇があり、その結果、必要労働時間が10時間から9時間に短縮された、と想定されているのではないでしょうか。ただ、これが不充分なことはマルクスも気づいていて、それが次のpg.8から引用した一文の意味ではないでしょうか。」

    とひとまずお答えしておきました。しかし、これはいかにもぎこちない答えで、マルクスがはじめから当該部門で生産力の上昇を織り込んでおけばすんだことじゃないか、という気がしたのです。つまり(II)をたとえば

    (III)24時間c + 9時間v + 3時間m

    のようにしておけばよかったのではないか、ととっさに感じたのです。(I)から(III)ならたしかに労働の生産力が上昇している(12時間の「生きた労働」v+m に対する「死んだ労働」c が12時間から24時間に増加している)わけで、必要労働時間の減少の原因は外部に想定されているんじゃなく、この内部に組み込まれていることが示せます。

    ただ、それでも、労働の生産力の上昇効果が、ちょうど10時間から9時間になる関係を明示することはできません。このあたりをいろいろ考えていると、マルクスがやっている、投下労働時間ベースで社会的再生産を集計する方法の限界に突き当たります。この限界を除去するには、物量ベースにもどるのがよい、というのが私の直観で、古典派経済学者がよくやっていたように、小麦1財でできている経済にもどって考えてみました。たとえば

    (IV)小麦12kg + 12時間労働 = 小麦24kg:小麦1kg = 1時間
       小麦10kgが労働者の生活手段 = 10時間
    (V)小麦15kg + 12時間労働 = 小麦30kg:小麦1kg = 0.8時間
       小麦10kgが労働者の生活手段 = 8時間

    (IV’)12時間c + 10時間v + 2時間m
    (V’)12時間c + 8時間v + 4時間m

    となります。

    これでわかるように、実は、生産手段である小麦の量と生産物である小麦の量が比例関係にある(2倍播けば2倍とれる)なら、生産力の上昇があっても生産手段の「価値」(12時間c)は変わりません。物量aが増えた分だけ「価値」tが減るので、両者は相殺されてc=at は一定です。結論的いえば、12時間c が一定でも、生産力が上昇し、しかも(II)のようになることはありうるわけです。生産力の変化があれば、生きた労働と死んだ労働の比率が変わるはずだ、という私の思い込み(おそらく『資本論』の蓄積論で、生産力の上昇は、資本構成の高度化を、あるいは生きた労働に対する死んだ労働の増大を伴うと書かれていたことに感化されたのでしょう)による混乱でした。

    教訓:「生きた労働と死んだ労働の比率が一定でも、生産力が上昇することはある」

  2. 小幡 道昭 のコメント:

    上の教訓は、実はけっこう、大きな問題です。『資本論』における窮乏化法則(生産力の上昇をともなう資本蓄積は、「生きた労働」に対する「死んだ労働」の比率c/(m+v) を高め、その結果、雇用労働量が減少する)や、利潤率傾向的低落の法則(m/(c+v) < (m+v)/c だから、生産力の上昇の結果、利潤率は長期傾向的に低落する)といった有名どころは、みんな、「生産力の上昇は必ず「生きた労働」に対する「死んだ労働」の比率を高める」という大前提にたっているからです。でも、「生産力の上昇は、一定時間に加工される生産手段の物量は増大させるが、同時に生産手段1単位を生産するのに必要な労働時間を減少させる、だから、両者の相乗効果で、死んだ労働の量は増えることも減ることもあるんだ」、この教訓はむかし、置塩信雄さんがはっきりいっていたことなんですが、「相対的剰余価値の概念」の、こんな簡単な例で迷うとは…. くわばらくわばら

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