『資本論』第一巻を読む IV:第2回

 

  • 日時:2017年8月16日(水)19時-21時

第14章「絶対的および相対的剰余価値の生産」

この篇は、新たな展開がなされているわけではありません。基本的に第3篇第4篇の補論と位置づけてよいでしょう。

とはいえ、いくつかのトピックが羅列されているようにみえ、要するに何が言いたいことか、つかみにくい章です。この章が絶対に必要なのか、という問題です。「絶対的および相対的剰余価値の生産」という第3のカテゴリーがあるわけではありませんから…

今回あらためて読んでわかったのは、要するに《生産力(の上昇)が剰余をうむというイデオロギー批判》の章だということです。

生産的労働をめぐって

pg 1-3

第5章「労働過程」にもどって、労働過程がバラバラの労働者の労働過程ではなく、「相対的剰余価値の生産」で明らかにした「協業」「分業」という組織性をもった労働過程であることを確認。

①「生産的労働」には労働過程を管理する、間接的な労働も含まれること。

②しかし、 資本主義のもとでは、剰余価値を生まない労働は、含まれないこと。この広狭の再規定を与えている。

ここで「学校教師」の労働が例ででてきます。「教育工場」という、むかしよく立て看に書かれていた言葉もでてきます。どこまでホンキにとるべきか、それはちょっとおきますが、資本主義の分析をおこなうとき、とくにスキルや知識が重要な意味をもってくるとき、これを既存の労働=生産のタームで捉えること自体に大きな限界があると私は思います。労働、生産の原理的な規定を深化させる必要があるといってもよいのですが。

形式的包摂・実質的包摂

pg 4-7

「相対的剰余価値の生産」のためには、労働者の資本のもとへの実質的包摂 die reelle Subsumtion が必要。他方、形式的包摂 die formellen Subsumtion のもとでも「絶対的剰余価値の生産」はおこなわれる。

相対的剰余価値の生産は、同時に絶対的剰余価値の生産のための方法でもある。(「機械と大工業」をおそらく念頭において、)この点を確認している。

形式的包摂・実質的包摂というタームは、1861-63年草稿23冊ノートのなかで多く語られている。これは、かつて『直接的生産過程の諸結果』というタイトルの国民文庫の訳本が流布していました。この「資本が労働を包摂する」という捉え方は、宇野弘蔵が流通論を独立させ、その「資本」の章で「商人資本的形式」という規定を与えたことと親和的な面があります。つまり、G — W — G’ が生産過程に外部から浸透してゆき、やがて生産過程 P を内部に組み入れることで G — W … P … W’ — G’ という産業資本になる、というアイデアです。かつては”形態が実体を包摂する”というジャーゴンで語られたことです。宇野派の形態による”包摂”と、マルクスの包摂は重なるところもありますが、やはり意味がズレています。

現行『資本論』は、労働力の商品化=価値どおりの売買=搾取論で、基本的に一貫させ、このような形式的→実体的 包摂という一種の「過程」論、あるいは「変容」論を切り捨てたのだと思います。『直接的生産過程の諸結果』が現行『資本論』ですがたを消し、かすかにこの章に面影をとどめているのは、第1巻を「搾取論→崩壊論」のラインで一貫させた結果でしょう(断定はできませんが)。私は、宇野を批判しつつも宇野派の端くれとして、この包摂論を批判しながら、変容論的に膨らませる考え方が自然に身についてしまっています。

「絶対的…」と「相対的…」の区別

pg 8-10 註(1)まで

この区別は一見したところ幻想的にみえるが、剰余価値を高める「方法」としてみると、両者は二者択一的なものとしてはっきり区別できる。

剰余価値の自然的基盤

pg 11-15 註(9)まで

自然的諸条件は労働者の生存に必要な必要労働時間をきめる要因でしかない。

剰余労働時間の長さは、必要労働時間によってきまるわけではない。

自然的諸条件に恵まれれば、必要労働時間は短いが、それは長い「暇な時間」をもたらすこともある。

剰余価値を人間労働に固有な性質と考えることのイデオロギー性。プルードン批判。註(8)

自然的諸条件の恵み die Gunst der Naturbedingungen についてどう考えるか、『資本論』はこの時代状況で考えているわけですが、自然環境が重要なイシューになっているなかで、これを資本主義にとって単純な与件、これを前提にそのうえでどこまでも労働生産力を高めてゆけると考える立場が、解釈の問題としてではないですが、理論的に深めてゆかなくてはならない問題として、現れてくるのではないかと思います。

生産力の発展のさきに、どういう社会を考えるのか?ここを読むと、単純化すれば、 資本主義のもとでの剰余価値の追求 → 生産力の上昇 、この先に、自由時間論 「暇な時間」 Was ihm die Gunst der Natur unmittelbar gibt, ist viel Mußezeit. が展望されている。

しかし、今日の時点で考えてみると、別の可能性として、生産力の上昇そのものをコントロールすることも考えられる(考えるべき)。少なくとも、生産力を高めたぶんだけ、生産規模を縮小すること、こうした可能性を考えてみる必要がある、と思うのですが….

資本の生産諸力

pg 16

「歴史的に発展した社会的な労働の生産諸力」+「自然に制約された労働の生産諸力」→ 「資本の生産諸力として現れる。」

生産力について「資本の生産力」という概念を否定。否定するのではなく「として現れるerscheinen」と意味づけるかたちになっています。物象化論の一種でしょうか。

ミル批判

pg 17(S.539) –

剰余価値の源泉を「労働の生産力」にもとめる古典派。その代表としてのJ.S.ミルという位置づけ。

①労働時間の持続と生産物の持続時間とを混同する誤り。

②重商主義批判の行き過ぎから、交換がなくても「利潤」は存在する=労働力の売買がなくても利潤は存在する、という誤り。

③剰余価値率m/vを利潤率m/(c+v)と混同する誤り。

④賃金の前払い・後払いで、労働者が資本家にみえると考える誤り。

ミル批判のネライは何でしょうか?この章全体についてもいえるのですが、何が本質なのか、ちょっとつかみにくい内容になっています。

私は、《剰余価値を労働生産力に結びつけるべきではない》というのが基本のメッセージだ、と読みました。「でない」という話が中心なので、ポジティブになに「である」かがわかりにくくなっているのではないか、と思います。

あらためて、剰余価値は何であるのか、その源泉は何か、と考えてみると、『資本論』の答えは、《労働日の延長=絶対的剰余価値の生産がすべての剰余価値の基礎である》という命題になるのではないでしょうか。「ミルは剰余価値の源泉は労働の生産力だといっているが、それは違う」、これが結論でしょう。剰余生産物の存在を生産力に結びつけてしまうのと、どんな社会にも生産力の上昇で剰余労働が存在するようにみえてします。しかし、《剰余価値が存在しない社会があるのだ、すべてはMußezeitとなる社会が存在しうる》、ということになるはずなのですが、このあたりははっきり書いてないので、解釈の問題をこえて、自前で考えなくてはなりません。

追記:このミル批判の箇所は、これも誤り、あれも誤り、という感じでポイントがはっきりしないのですが、私は生産力上昇=剰余労働増大  ではない、という否定がコアだと読みました。もともとこの部分は1872年から分冊ででたフランス語版で付け加えられたものを第3版のドイツ語版から組み入れたものだそうです。そして、このミル批判は、実は次のような事情によるのだと、昨日帰宅したときに献本いただいた武田信照『ミル・マルクス・現代』ロゴス 2017年 に記されているのを読み、”なるほど、そういう事情もあったのか”と納得しました。

国際労働者協会=第1インター(1864年創立)には、ミル本人こそ加わっていないが、議長オッジャーをはじめミルの友人・信奉者ともいうべき人々が参加していた。… 当初はマルクスが、主導権を握っていた彼らと協力し、革命思想の宣伝を控えていたため、この対立は運動の表面には顕在化しなかった。… しかし第2次選挙法改正や土地改革運動をめぐって両勢力の関係は次第に冷却化し、パリ・コンミューンの評価で亀裂は決定的となり、ミルの「弟子」たちは組織を脱退する。その現れが『資本論』フランス語版(1872年)とそれを訳したドイツ語版第3版(1883年)とに追加された長文のミル利潤論批判であり、ドイツ語版第2版(1873年)後記での「無気力な折衷主義」「「ブルジョア」経済学の破産宣告」といったミル断罪であった。(16頁)

武田さんの本で教えていただいた、ミルとイギリス社会主義運動の関係、これに対するドイツ人亡命者マルクスの関係は私にとって興味深い論点でした。要するに、マルクスのミル批判の背景は、イギリス労働運動における主流派:漸進主義的な協同組合主義 に対する批判だった、という点です。私は、『資本論』第1巻の前半の搾取論は、フランスにおけるプルードン型市場社会主義、後半の崩壊論はドイツにおけるラッサール型国家社会主義(福祉国家論)批判だ、と考えてきたのですが、もう一つ、ミル型協同組合社会主義(オーウェン主義)批判があるのだ、と今は考えています。9月16日の『資本論』150年記念シンポの報告原稿には、プルードン批判とラッサール批判の話は書いてあるのですが、ミル批判の話も現場で付け加えることにします。

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