『資本論』150年

先日『資本論』150年記念の講演会があり、報告してきました。
報告論文はかなり長いものとなったので、それを40分の報告時間にあわせて短縮した、口述原稿およびスライドをここに載せておきます。

『資本論』がこれまでどのように受容されてきたのか、異なる歴史的状況のもとでの「読まれ方」を客観的に見なおすことで、その履歴のうちに『資本論』の今日的意義もはじめて読みとりうる、というアプローチを試みてみました。過去の「読まれ方」をただ誤解誤読だと切り捨て、『資本論』の未定稿のうちにマルクスの「真意」を探るというアプローチには、どこかかけているところがある現代という、まだ全貌がよく見えていない歴史的状況によって規定された、読み手の主観性が、やはり客観化できていない、そういう限界があるのではないか、これが「資本主義の歴史的発展と『資本論』の読まれ方」というタイトルにこめた思いです。

では、こうしたアプローチでなにがわかるのか。一言でいうと、①20世紀の「マルクス=レーニン主義」が意味をもった歴史的プレートが新たなプレートと交替を遂げつつある歴史的状況のもとで、②さまざまなかたちで生みだされてくる、現実の社会民主主義的な運動を「社会主義」とよびうる、そんな資本主義の原理像が読みとれる、これが結論です。”本当の『資本論』にはこう書いてある”という話ではなく、”歴史的な著作として『資本論』を批判的に読むことで、こうした「空白の社会主義」を抱え込んだ資本主義像が浮かびあがってくる”という話です。もちろんこの結論自身もまた、私の主観的な「読み方」にすぎませんが。

講演の後、”『資本論』前50年、元年、50年、100年、150年の話は「技能賞」もの、ただこの「結論」さえいわねばネ…”、 ”君にしてはめずらしくわかりやすい話だった、あの「結論」はべつとして…”などと、懇親会の席で褒められたのやら、からかわれたのやら …とはいえ ”わかりやすい話をするようになっちゃ、「原論屋」もそろそろ店じまいですかネ ….”などと、素直になれない性分は相変わらず。

ただこの夏、報告論文をつくりながら、日本における『資本論』の特殊な「読まれ方」に興味を覚え、とくに河上肇の『経済学大綱』と宇野弘蔵の『経済原論』の対比などするなかで、自分が30年あまり大学で講義をしてきた「経済原論」とはなんだったのか、少し客観視できたような、そんな気がして、暑いさなか、一瞬の清涼感を味わえたのはたしか、チョッとは大人になったのかも。自分が何をやっているのか、それは後にならぬとわからぬもの、そして、自分が今回、なぜこんな報告をしてきたのかも….

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