『資本論』第一巻を読む IV:第5回

  • 日時:2017年12月20日(水)19時-21時
  • 場所:銀座経済学研究所
  • テーマ:『資本論』第1巻第16章第17章

参加を希望される方は 小幡道昭 宛にご連絡ください。

第17章「労働力の価値または価格の労賃への転化」

前回読み残した第16章「剰余価値を表わす種々の定式」を検討してから、17章に進みます。

第17章「労働力の価値または価格の労賃への転化」

1. 概要

1.1. 課題の提示

なぜ、「労働の価値ないし価格」という規定という「ばかげた同義反復」eine abgeschmackte Tautologie が生じるのか?問題を提起し、この同義反復性ないし矛盾を説明しています。

  1. 「相互矛盾」註22直前のパラグラフ:交換問答(第2章「交換過程」ででてきた)をおもいださせます
  2. 「対象化された労働と生きた労働との直接的交換」の「直接的交換」は「物々交換」のこと。これは①「価値法則の廃除」か、②「賃労働にもとづく資本主義的生産の廃除」を意味する。
    1. 等価物が交換される → 12時間 = 6シリングで剰余価値は発生せず。つまり②のほうが先に説明され、
    2. 12時間 = 6シリング以下なら、これは不当な大きさの等置であり「法則」に非ずと①のほうが説明されています。なんで順番を逆にしたのか、どうでもいいですが、ちょっと読みづらいですね。
  3. 「対象化された労働」と「生きた労働」だから不等価になるといっても無駄。価値革命を引き合いに生きた労働が規定するのだ、と答えているようです。

1.2. 「本質的諸関係」と「現象形態」

註24のあとから3パラグラフ。労働力の売買が労働の売買として”錯視”される。「現象においては、ものがさかさまえる verkehrt darstellen」というが、さかさま inverted とは?

古典派経済学では、価格変動の重心を生産費で説明し、これとの対応で労働の価値を労働者の「生産費」として説明しようとして混乱に陥った。

『資本論』も労働力ではなく、労働力の、しかしやはり「生産費」として労働力の価値を規定してきたのではないか、それとも、ここでは労働力の生産費説そのものを否定しているのか。

1.3. wie の問題

どのように wie 表わされるのか、という問題。

転倒した形態であることが明らかにされたことをふまえて、本質がどのように現象するのかを問題にしています。

  1. 労働の価値<労働の価値生産物
  2. 不払労働の隠蔽 verbergen conceal

1.4. 現象形態の必然性(”存在理由” raison d’etre)

  1. 売買一般の「知覚」
  2. 使用価値は違っても「交換価値」としての表現は同じ(「綿花の価値」「労働の価値」表現上の同一性?)
  3. 後払いの効果
  4. 労働力の機能としての有用労働しか見えない
  1. 「労働者の立場から見れば」
    1. 一労働日12時間の価格変動が。12時間の「労働」の価値という観念を生む
    2. スミスは逆に、賃金は変動しても「労働の価値は不変」と主張:価値人類犠牲説(河上肇)
  2. 「資本家の立場から見れば」
  3. 「労賃の現実的運動」
    1. 「労働日の長さの変動に伴う労賃の変動」:労働日の延長が賃金額をうむ、ということではないはず、どういう意味か?
    2. 熟練の違いによる賃金の違い:

1.5. 結語

最後のパラグラフ:「現象形態」:「普通の思考形態」als gang und gäbe Denkformen として「再生産」されるとは…

2. 論点

2.1. 本質・現象論

『資本論』では冒頭の商品論から、本質がある形態 Form で “現れる”(現象する erscheinen・表現される darstellen)という問題が焦点になっている。
<

この現象論には二つのレベルがあります。あくまで私の経験的な総括ですが…

  1. 目に見えないものが目に見えるものとして立ち現れるというレベル
  2. 目に見えるものが、別の目に見えるものにかたちを変えるというレベル

前者が固有の意味の現象形態論で、商品に内在的な価値が価格として現象するという価値形態論が典型。後者は一般に「転化(Verwandlung) する」 verwandlen つまり、transformation であり、カフカの『変身』です。これまで第1巻を読んできたみなさんの印象はどうでしょうか。

2.2. 労賃論の特殊性

「労働力の価値または価格の労賃への転化」にいう転化も基本は、後者のかたちを「変える」論でしょう。ただ、労賃論はかなり特殊な面があります。それは、剰余価値の利潤への転化や、利子生み資本論(利潤が利子に転化する)から「三位一体の定式」までの展開に関連してきますが、いまはここまで立ち入りませんが…

私がいちばん問題だと思うのは次の二つの関係です。

  • 労働力の価値の労働力の価格への転化
  • 労働力の価値の労働の価値への転化

  • 「労働力の価値または価格の、(労賃形態=)労働の価値または価格への転化」(註28の直後の文章)という表現は、ダブルミーニングになっています。労働力の価値 → 労働力の価格 → 労働の価格 の2段階があり、労賃形態というのは「労働力の価格 → 労働の価格」を包括するのではないかと思いますが、この章では「労働の価値または価格」が労賃形態とされています。何が言いたいのかというと、ここで論じられているような”12時間の「労働」全体に1万円が支払われている”という考え方 Denkform が発生するのは、①価値・価格の表現のレベルの問題なのか、それとも、②労働力と労働の混同のレベルの問題のなのか、という点です。

    私の感想は、この章は全体として②のほうに傾いており、①のレベルでの観念形成の問題、つまり”1日はたらいて1万円を受けとる”という本来の意味での賃金形態から生じる観念の問題に焦点が当たっていないのではないか、少なくとも、両者の関係をもう少し掘り下げる必要があるのではないか、ということです。

      

    労働力を労働と考えることで、12時間全体に支払われているような観念が生じ、「不払労働」の存在が「隠蔽」されるというのですが、「不払労働」という観念自身、「労働力の価値」という概念に照らせば成り立たないわけで、1労働日が1万円で表現されるという{「労働力の価格」=労賃}のレベルでは消えているはずなのですが、ここの章で労働力と労働の混同という問題が追加されて、あらたに「不払労働」の再規定とその隠蔽という問題が追加されたかたちになっています。

    2.3. 物象化論

    「物象化」については、複雑な独自の用語法があり、精確にフォローすることは日本語ではむずかしいところがありそうでそうですが、私の理解できる範囲でいえば、基本は次の点だろうと思います。

    ちょっとややこしいですが、ここでいえば、冒頭の文「ブルジョア社会の表面では、労働者の賃金は、労働の価格、すなわち一定分量の労働に対して支払われる一定分量の貨幣として現れる」という捉え方の問題です。「労働の価格」というのは「労働力の価格」というべきところなのですが、世間では労働の価格という言い方が一般的で、少なくとも労働と労働力を区別して、労働の価格ではなく、労働力の価格ということはない。労働の価格では不正確で矛盾をうむ、その意味で「誤った」言い方なのですが、問題はみながみな間違えるということです。内容はまちがいだが、みなが間違えるという意味では、何かそれなりの理由、社会的根拠があるはずで、内容は誤りでも、誤りを犯すのは誤りではない。ぎゃくに、誤った用語法をなんとなく用いない人のほうがヘンだ、ということになる。

    物象化論というのは、おそらく、このみながみなそろって間違ってしまう理由まで明らかにしようという理論なのではないかと思います。「労働の価格」というのは不正確で誤りだ、「労働力の価値」といえば混乱は防げる、これが正しい厳密な言い方だ、と常識を批判するのではないのです。そういう誤った、というか、少なくと表面に現れた「労働の価格」が、「労働力の価格」という正しい概念から、どのようにして wie 派生するのかまで、明らかにする必要がある、というのではないかと思います。

    最近、『資本論』全体をこうした問題意識で読みなおそうという機運が高まっているように思います。大谷禎之介さんの「利子生み資本」moneied capital についての新解釈をよんで、また自覚が強まりました。ただ、私自身はA B いずれが真か、という形式論理に徹するように心がけています。私はマルクではありません、どんなにがんばっても、私のものにならない思考癖もあります。「物象化」は理解すれども、これに頼ることなし(我神仏を敬すといえどもこれに頼ることなし)。マルクスに倣って、物象化とか、ちょっと筋は違いますが通俗的な「弁証法的」などという言い方はしないよう、禁欲しています。これは、伝家の宝刀、抜かずにしまっておくべきものでしょう。

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