『経済原論 基礎と演習』への質問と回答

私の『経済原論』を教科書として使ってくださっている方からの「質問」に答えておきます。

『経済原論』質問項目その1への回答

『経済原論』質問項目その2への回答

『経済原論』 質問項目

2017年12月22日

A.商業資本について

A.1 商業資本の「組織化」とは?

商業資本の分化の効果(3) 218頁。「情報の伝達」はわかるのですが、「組織的な取引網」218とは具体的に何か? (ただ、理論的に演繹できるものではないとされていますが) 

小売と卸売の分化です。ただし産業資本と産業資本の間を結ぶ商業資本では、この分化はあまり見られません。これは産業資本と多数の消費者の間で発達すると関係です。

A.1.1 最近の「市場の組織化」の議論は?

最近の柴崎氏らの「市場の組織化」の議論は、取引相手との不確定性が明らかに除去される保証がなければ流通資本を減らすわけにはいかないので、

①売買については、買い手から売り手に対して買取枠(期間にせよ、量にせよ)の設定、

②商業信用については、売り手から買い手に対して与信枠の設定を行い、

売買については売り手にとって、商業信用については買い手にとって、それぞれ流通資本を減らすことができる、ということか?

教科書では産業資本は自分で販売する可能性も持つ(216)とされているので、柴崎氏の組織化は条件が強すぎるということか? 商業資本が分化すれば、多数の商業資本が何らかの形で、産業資本の在庫を買い取ろうとするので産業資本が直接、販売を担う可能性が低くなる(が、なくなるわけではない)ので、準備すべき流通資本は「ある程度」まで減らせる、というのが原論での理解か?

最近の「組織化」論は、① 組織化=継続取引(明示的な・暗黙の)であり、②田中英明・清水眞志説が、産業資本間取引の「組織化」論だったのに対して、柴崎説は商業資本と一般消費者間の取引における「組織化」論に拡張したものです。

A.1.2「組織」という用語について

「組織」とは 「労働組織」「銀行間組織」 商業資本における「組織的な取引網」218

「組織」とは、一般には、市場以外の方法(指揮命令系統など)による関係を意味しているように思うのですが、そうすると「市場組織」とは語義矛盾と思えます。「組織」「機構」は単なる「仕組み」とよんでよいか? 

たしかに「組織」という用語が無定義のまま使われています。市場か組織か、という二分法で考えると「市場組織」は語義矛盾となります。ただし、個別資本の競争のなかから<「組織」的なもの>が形成される面もあります。しかし、テキストでは、これには「機構」の語をあて、「市場機構」「市場の機構化」として「機構論」で説明しました。「銀行間組織」は「機構化」の一つです。これに対して「労働組織」の「組織」は機構論の「組織」ではありません。『資本論』のように労働過程を単独労働者の目的意識的活動に限定するのではなく、目的意識的活動が本質的に他者との「結合」(意識レベルでの結合=「協業」と生産物を媒介とした結合=「分業」)を含んでいることを示すものです。

A.2 どこまで商業資本か?

A.2.1 委託販売は商業資本か?

在庫商品を買い取るのが商業資本の本体(215)で、取り扱い商品の選別が商業資本の本来の活動(217)と読んだのですが、在庫の買取をしない委託販売は商業資本か? (※なお、書籍は価格を維持することと見返りに返本制があり、委託販売に少し近い)

委託販売のように流通費用だけの資本もある、ということでよいか?

商業資本は「買う」ことが基本です。産業資本との関係は売買で完了します。買った商品が売れなかったら、その損害は商業資本がおうというのが原理です。「委託」というのは販売に関して、市場調査や取引操作の費用を払っているのであり、産業資本が「売る」という基本は変わりません。これは産業資本が、販売に際して通信業者を利用したり、運輸業者を利用したりするのと同じです。

ただし、「委託販売」の場合、契約の内容によっては、産業資本の側が販売の困難を事実上解除されるものもあるでしょう。また、「委託販売」を担う資本 B が、産業資本 A から「受信」したかたちもありえます。産業資本への支払いは、委託販売が完了したあとになされるわけで、Bは流通費用だけを投下するかたちになります。ただ、この場合は、商品はAからBに後払いで「売買」されているので、委託商品が売れなくても債務の支払いはなされなくてはなりません。このケースは「委託販売」ではないでしょう。

A.2.2 調査のみを行う資本は産業資本か?

問題136解答(商業資本について)では、本書の定義では「調査」は生産ではない、としているが、229頁(銀行信用について)では、調査を行う資本について、「一定のコストをかけて情報を集め、それを販売する運輸業者や通信業者と同格の産業資本」としている。情報を収集する調査会社は生産を行わない産業資本というのが本書の理解か?

「一定のコストをかけて情報を集め、それを販売する運輸業者や通信業者と同格の産業資本」は、一定のコストをかけて情報を集め、それを販売するだけで、その点では運輸業者や通信業者と同格の産業資本」と訂正するつもりで赤を入れたのですが直っていませんでした。

さて、「生産」というための一つの要件は、投入と産出の間に安定した関係が成り立つことです。生産「技術」があることです。① ”あるところでいついくらで取引されたか”を調べるのには、この意味で技術があると考えれば、「調査」も「生産」です。

問題はなんのために「調査」するかです。これは ②商品を”いついくらでどこで売るか”を判断するためです。① → ② の間には、技術的必然性がありません。①と②を切り離すことができるのであれば、①のみを専門におこなう資本は、「運輸業者」や「通信業者」と同じく産業資本だということになります。ただ、問題は、販売に関する情報の収集では ①と②が簡単に切り離せないところにあります。①の調査内容は、貨物を東京から大阪まで輸送する役務のようにどの資本にとっても客観的に同じ役務とはなりにくい、個別性・特殊性をもっています。このため、これまでは「調査」は販売する資本の内部活動に組み込まれていたのですが、情報通信技術の発達はこの領域に新しい分業関係を生みだしています。

B.利潤率について

B.1 利潤率の計算について

B.1.1 値引き販売について

55頁 個別的な価値尺度ではバラツキのある複数の価格になり、社会的な価値尺度としては、そうした複数の諸価格のセットになる。では、売買当事者が値引きと意識した価格で売買された場合も、社会的な価値尺度の束の一つとなるのか、除外されるのか?

 値引き販売は相場よりも差があることが明らかにならなければならない(68-69)ので、値引きで販売された価格は社会的な価値尺度の束から除外されるということでよいか?

テキストは(90,100,110) 円だといているので、おそらく「除外」しないということなのでしょう。缶ジュースの価値は一つだが、それはバラツキをもつ価格現象を通じて「計量」されるといっているようです。

B.1.2 利潤計算にとって

粗利潤=売上総額-仕入総額

売上総額=売上単価×販売数量   84頁

純利潤=粗利潤-流通費用総額   85頁 

値引き額は、㋐流通費用総額に入るのか、あるいは㋑売上単価に入って、売上単価は多数になるのか?

値引き額は「売上総額」に反映されます。値引きせずに流通費用をかける(在庫を保持して相場で売る)という相関はある程度考えられますが、経理上は「流通費用」に値引き額が入ることはありません。㋑が正解でしょう。

B.1.3 粗利潤率の抽象性について

83-85頁の「利潤」の項目では、粗利潤、純利潤の順で説いてある。姿態変換が生み出す増殖分が粗利潤、次に流通費用を考慮して、運動体としての資本の増殖分として純利潤、という順序になる。

ところが、188頁からの「粗利潤率と純利潤率」の項では、純利潤率、粗利潤率という逆の順番になっている。実際の資本の増殖分としての純利潤と純利潤率が現実にあって、不確定な流通過程の要因を除去するという抽象化を施したものが粗利潤と粗利潤率ということでよいか? 

したがって、純利潤率は実際の売買に基づく計算による結果から把握できるが、他方、粗利潤(率)は最適操業率(操業率100%)かつ、すべて定価(相場の価格)で販売できるとした場合の利潤という想定によって計算される、ということでよいか?

 粗利潤率の均等化は想定上の計算で生産過程の設計の基準になり、純利潤率は均等化しないが、実際の利潤率の目標としての基準となる、ということか?

その通りです。粗利潤率ベースの一般的利潤率 R は「理論値」だともいっています。ポイントは、この R と 個別資本の純利潤率 ri の関係 R > riです。両者が別々に存在し、「背後で」「結果的に」「重心として」etc 関係している、というのではなく、R が上限として「規定力」をもっている点を理解することにあります。

B.2 商業資本の利潤率について

B.2.1 商業資本の利潤率

 商業資本には純利潤率はあるが、粗利潤率はない。純利潤率は均等化しないのだから、純利潤率を基準とした商業資本についての215頁の問題134の計算は、粗利潤を基準とした地代の計算とは性質が異なる?

というよりも、純利潤率の均等化を想定してよいのか?

商業資本でも、(pr—pw)×生産量(購買量ですが)の部分が粗利潤、ここから「流通費用」を引いた額が純利潤となります。

なお「純利潤率の均等化」という考え方はこのテキストでは採用されていません。

B.2.2 「流通費用の資本化」について

利潤率均等化との関連で、流通費用は確定性を持つものとなり利潤率計算の分母に入りうるかどうか、として論じられてきた。流通資本の額は確定化せず、均等化するのは粗利潤率で、純利潤率は下方分散するならば、「流通費用の資本化」の問題は消滅するのか?

まず「流通費用の資本化」というのは、語法の問題としては誤りです。「資本」は「投下」されるもの、「費用」は「支出」されるもので、費用が資本になるということはあり得ません。

そのうえで、実質的内容の問題ですが、投下された資本に対応する資産のかたち shape Gestaltは、(このレベルでは)売買(のみ)を通じてかわります(姿態変換 Formwechsel)。”流通費用は直接「剰余価値」を生まないから資本ではない、それが商業資本のもとで商業利潤が「分与」される結果、資本になる、という問題構成をとることをこのテキストはとっていません。ですから「問題は消滅する」で正解でしょう。

B.3 固定資本について

B.3.1 固定資本と流動資本の相対性について

184頁に同じ労働手段が、生産物1単位の生産期間の長短に応じて固定資本にも流動資本にもなる例がある。これは生産物1単位の生産期間がある場合だが、生産物1単位が想定できない場合はどうなるのか? 連続的に投入され、連続的に産出されるもの(糸から布へ、鉄鋼の圧延過程)などは、生産期間が決められない。原材料はもちろん流動資本だが、実務的には、労働手段は利潤率計算の都合による期間(1年など)を基準に流動・固定の判断がされる。

 もし利潤率計算による期間に固定・流動の区別を導入するとすれば、商業用の施設にも固定資本が登場することになる。しかし、教科書では流動・固定はあくまでも生産期間に対応するもので、利潤率計算の都合によるものではない、したがって流通過程には固定資本は存在しない、としてよいか? 

固定資本の定義は、このテキストの不充分なところです。この用語は一般に流布しているので定義は避けられません。そこで、① ひとまず定義として、生産期間=確定的期間 を想定して、この期間内に生産物に全額コスト計上できる部分=流動資本、できない部分=固定資本 という教科書上の定義を与えました。もし、この言葉を使うとすれば、このテキストではこういう意味です、という宣言です。② そのうえでテキストの推論のなかでは、固定資本が存在しない領域を想定する、というかたちになっています。一般的利潤率 R の決定から、固定資本の存在を考慮した世界は、上級原論として「棚上げ」にしてあります。このテキストは「固定資本と流動資本」の区別は、それをしないですむ条件・範囲を明示にするための消極的規定になっています。

流通過程における店舗や倉庫のようなものを「固定資本」とよぶことも、通常は考えられるわけですが、これは原理ぬきに、現象を外から観察して、相対的に長い、といっているだけです。

B.3.2 固定資本の取り扱いの「厄介」さ、について

土地合体資本のところ(210頁)で「資本は姿態変換を通じて、資産価値の評価を繰り返し行うことで増殖の事実を確かめる」続けて「この観点からみると、減価償却を通じて、期間をかけて部分的に投下された価値を回収する必要のある固定資本は、それ自体資本にとって厄介なお荷物である」とある。

この「厄介」は、その労働手段の耐用期間が、利潤率計算の都合による期間を大きく超えていることが問題であって、生産期間を基準にして長い、ということが問題ではないのでは?

この「厄介」さは、問題59の在庫商品の評価額のように、利潤率計算の期間をまたいだときには、(固定資本ではなくとも)流動資本・商品資本のレベルでも生じる。

土地合体資本の厄介さは、単に「利潤率計算の期間」をまたぐということから発生するわけではありません。「在庫商品の評価額」とはレベルが違う厄介さです。

B.3.3 固定資本の価値評価について

資産価値の変動を増殖(マイナスの場合もある)の計算、つまり利潤の計算に入れることを原論で述べるのか? 

であれば、固定資本以外のすべての資産について、利潤率計算の期間の期首と期末で変動した部分を利潤とするアプローチをとりうるのか? なお、85頁では利潤はフローで計算と明示されている。

 教科書では【粗利潤=売上総額-仕入総額】というアプローチが利潤計算を基本。部分的に、【価格変動=増殖分(利潤)】アプローチで補足する、ということでよいか? (※なお、会計学的には前者が「収益・費用アプローチ」、後者が「資産・負債アプローチ」)

 もし、極端に、全面的に【価格変動=増殖分アプローチ】を採用すると、労賃分が問題になる。

※資本はフローか、ストックか、という長い論争があるのかもしれない。

※最近の「非姿態変換型の価値増殖」は【価格変動=増殖分アプローチ】を、固定資本だけでなく、商品資本、金融資産など他の形にも広げているように思われる。

このテキストは、投下された資本額をストック、利潤を費用支出、売り上げ収入から説明されるフロー、そして期間を定めて増殖率=利潤率をフロー/ストック と規定しています。

テキストから離れますが、私は資本の基本規定を考えるうえで、価値増殖に関して「販売」による収益の確定は必須か、別解をとったこともあります。つまり、まだ販売されていなくても、相場において在庫の価格が与えられていれば、この時点で仕入れ費用をこえるマージンは存在すると考えたのです。これは、商品に価値が「内在する」と考えたことの系です。逆に商品種には同じ価値が内在すると考えないと、ともかく売れなければ価値増殖も考えられないということになります。まだ売れていない商品の価値の捉え方が分岐点になります。現在私は、販売確定は利潤概念に不可欠だという立場に戻っています。ただ、利潤率というのは、対象に対する「評価」を含むもので、リンネルが20ヤール「ある」というように客観的にカウントできるわけではありません。利潤率はその意味で、主体による計算プロセスであり、それは多重的な利潤率を許すものであり、また主体によって複数の率が利用されるのだと思います。

C.市場価値・地代論

C.1「競争」という用語について

 競争の定義を、より優位にいるものの模倣(190頁)、としているようだが、「競争」には他より優位に立とうする側面があるのでは? 模倣では弱い気がする。

「競争」にはもう一つの側面、つまり、①生産方法を変更する=特別利潤の獲得 ②新生産物の開発 が存在するのは、たしかです。ただ、価格機構による社会的再生産の編成、には、この側面ではなく、相対的に有利な資本の「模倣」型の競争です。①や②は、資本主義的な発展のダイナミズムを説明するという側面で重視されるのですが、このテキストではこの側面の評価が低いかもしれません。

Cという.2 新種の生産物と特別利潤

200頁に新種の生産物は、「同等の役割を果たす既存の生産物の生産価格を受け取る」とある。同等のものが想定されえない場合は独占地代でよいか? 

ただし、独占地代を増やし過ぎるのはよくない気がする。

「同等のものが想定されえない」と考えるよりは、「同等」の対象範囲を拡張して考えるアプローチを勧めます。

C.3 需要による価格上昇

既存の生産条件による供給を需要が超過して、劣等な生産条件が入ってくる過程の説明で。「社会的需要の拡大で価格が上昇」といってよいのか? ミクロ経済学の価格決定論との違いは、供給条件の優劣が連続的ではないこと、需要量の変化→それに応じる生産条件の変化→市場価値の決定、という順序で、価格の変化→需要の変化という需要曲線は考えない、ということか?

ご指摘のように「需要量の変化→それに応じる生産条件の変化→市場価値の決定」ということです。不連続な生産条件AとBの中間で、需要供給の均衡で市場価格が決まるという考え方はしません。日高普『経済原論』にみられる「過渡的差額地代」は存在しません。

C.4 「本源的自然力」について

C.4.1 言葉の定義

「本源的自然力」は、㋐生産に貢献するだけで「本源的自然力」か、あるいは、㋑利用に制限があり、他と較差があることが必要か? つまり生産性を向上させる新たな知識は、制限されて生産性に較差をつければ「本源的自然力」だが、制限されていない場合はどうか?

※リカード式に言えば、「根源的で不滅の力」だが、誰でも豊富に利用できる場合には支払いはされない、ということか?

「本源的自然力」の基本は㋐です。支払いがなされない「本源的自然力」の利用も当然あります。むしろ、知識も含めてこれらが「発見」の原理で私有の対象として囲い込まれ、支払いの対象とされるのです。

C.4.2 「知識」への拡張

恒久的土地改良は、将来、制限された知識を生み出すと期待される研究開発への支出と同じと考えてよいか?

基本は同じで、そのうえで種差が生じます

C.4.3 「資本にはできない恒久的土地改良」211の意味

 資本が土地所有をして恒久的土地改良を行う、あるいは新たな知識の研究開発を行う、こと自体ができないのか、あるいは、それを行うと資本としての性質は本的自然力(土地)所有者に変化するという意味で「できない」のか?

買って売るという原理で売買差額を追求する原理と、貸して賃料をとる一方的な販売で利得を得る原理とは、おなじように利益を上げるにしても区別すべきです。現実の営利企業が、資本と土地所有者(土地改良をもおこなう)とを兼ねることは可能ですし、普通にあります。しかし、原理的に両者は区別されます。

D.信用貨幣論

教科書では貨幣が導出されてから、信用貨幣論が説明される。そうすると物品貨幣を基礎に信用貨幣が発生するという理解になりやすい。問題34の解説(292頁)で茶が債務証書=信用貨幣になりうることが説明されているが、これは間接交換の段階である。価値形態論の終わりとして貨幣形態に落ち着く前に、間接交換の段階で茶の引換証を導入して、信用貨幣と物品貨幣を並行して導出することは可能か? 

まず「信用貨幣」という用語は、非「物品貨幣」という意味で、『資本論』に依存して(第3 章第3節の「支払い手段」にでてきます)使ったもので、まだ「信用」の意味が規定されていないのでそれ自体としては未定義のままであることを断っておきます。

価値形態論にさかのぼって、「信用貨幣」の可能性を明確にする必要があるのは、むずかしくなりますが、ご指摘の通り、明確しなくてはなりません。この場合、価値形態論を交換の場から、価値表現の場に抽象化する必要があります。「間接交換の段階」というように交換の便宜から、信用貨幣の並行性を説くと出口がみつからなくなります。問題の基本は、商品価値の「表現」という観点からみて、金属貨幣:物品貨幣に限定される必要があるか、他の商品に対する「請求権」(証券)でも、内在的な価値の表現は可能である、という命題を論証すればよいのです。

E.労働

E.1 賃金:成果主義や年功序列はランク付けの時間賃金か? 出来高賃金は個人ではなくグループ単位(『資本論』)もあるのでは?

「出来高賃金」の基本は、個別の労働者に生産物が直接割り当て可能であるということにあります。だれが何個作ったかが、直接目に見えるかたちで与えられる必要があるわけです。したがって、グループ単位というのはむずかしいということになります。しかし、『資本論』をみると、親方(老板ですね、中国語の)が出来高制で作業を請け負い、そのもとで多数の労働者を組織・管理するケースも紹介されています。これは親方は出来高賃金ですが、そのもとで集団ではたらく労働者は出来高ではなく、時間賃金になるようです。

E.2 136頁の「査定」のある段落の意味・意図がよくわからない。

「査定」の基本は、一人ひとりの出来高が、客観的に目に見えるかたちで現れない点にあります。だから、外部から監督者が「評価」する必要があるのです。これは直接目に見えない価値を、価格で表現するという価値形態論にも通じる、「評価」の問題です。

E.3 労働市場の「型」と、マニュファクチュア型・バベッジ的効果の「型」は別物でよいか?

別物です。混乱を生むなら「方式」とか「…流」とか、別の用語のほうがよい。

E.4 労働力商品の特殊性について。「型付け」されることと、通常の商品における同一種内の差異(あるいは類似商品)との違いは、労働力は型の変更が可能だが商品は変更不能、ということでよいか?

「型付け」という概念の根本は、「熟練」といっても一人ひとり度合いの違う熟練として評価、査定して処理するのではなく、最低限のレベルで統一して、その型の内部では「同種」大量の労働力として処理することにあります。労働力商品に関して同種大量性を説明するのに、単純労働を絶対条件としないアプローチです。歴史的に、スキルは相対的に高まってゆくが、そのなかで労働力の同質性、同種大量性が「型」づけによって処理される、というのが基本です。

そのうえで「型」を労働者による労働力の販売のための費用として規定する試みを追加しました。一般商品との比較もこの「流通費用」的な観点から考えてみたのです。型付けに支出された費用は、商品の包装に使われた流通費と同じです。型付けはパッケージの問題で、売られる「労働力」が変更されているわけではありません。「労働力は型の変更が可能だが商品は変更不能」というではありません。

F.生産

生産された物が再投入される「基礎財」についてのみ、量の増減で生産かどうかが判断されるが、生産過程に投入されない物財は0から増えた、と考えられないのか?

生産と消費の区別について⇒別紙 「小幡[1995]と小幡原論[2009]には違いがあるだろうか?」

G.株式資本

「逆にいえば、例えば巨大な資本額を要する産業が発達し、資本間の規模に歴然とした格差が生じるといった条件がないと、株式証券の商品化は実現しない」(247頁)

この点での株式の困難の問題は、長期貸付や債券における将来の返済能力の判断の困難と同じ意味で株式の将来の配当可能性と読んでよいか? 

擬制資本

 この用語を使わない理由は?

資本概念を厳密に定義し一貫させるためです。同じ理由で「貸付資本」も「利子生み資本」「利子付き資本」という用語も排除します。

ちなみに、こうした用語法をめぐっては、二つの行き方があります。概念Pを厳密に定義したあと、これから逸脱する契機(要因)がでてくると、それを「狭義のP」に対する「広義のP」だとよんで、拡張してゆく広義・狭義アプローチです。

もう一つは、このような用語の拡張を排し、Pに対して非PをQと定義し、PとQの重なりがないようにPを厳密に定義しなおす再定義的アプローチです。

『資本論』を読んでいると、前者のアプローチが自然に身につくのですが、原理論研究者としての私は、後者のアプローチが可能なかぎり、まずこれによるようにしています。転化論とか物象化論とか弁証法とか、といった前者のアプローチは「伝家の宝刀」で、よほどのことがない限り「抜かぬ」という決意があってこそ「華」、と思うようになりました。何十年もマルクスのまねをして、こうしたものを振りまわす人たちをみてきた挙げ句です。

H.景気循環論

好況期全般における賃金上昇

 好況全般にわたって実質賃金率の漸増(260-261)はおかしいのでは? 好況末期になって初めて急上昇するのではないか?

 不況に、労働慮に対する需要供給で賃金が下落するわけではない、という部分について(261)。好況末期での賃金の不均質な高騰が、恐慌によっていったん収まり、ある程度賃金の下落はあったうえで、産業予備軍の増加にもかかわらずさらに賃金が下がることはない、という意味か。

固定資本の稼働率は生産過程に潜伏した流通資本という性格

 259頁。「在庫(滞貨)増加」という流通資本の問題を、「稼働率の引き下げ」という生産過程で緩和する、という意味のようである。 ただ、その場合、本当に「潜伏」するのかは、少しわからない点がある。

〔操業率を下げると流動資本が減って流通資本が増える。資本総額は不変〕

操業率を下げるために、購入する原材料を減らすと、準備金の支出(185頁のGから出る矢印)が減速する。他方で、以前に買った原材料があるので、完成してくる生産物(185頁のWへ入る矢印)は減らない。そのため、しばらくは、流動資本は徐々に減り、流通資本は徐々に増える。以前購入した原材料が減って操業率が下がれば、流通資本においてGから出ていく額と、Wへ入っていく額とがバランスする。これらの過程において、純利潤率の分母のうち【流動資本+流通資本】の合計は変化していない。固定資本は操業率に影響されないので、純利潤率の分母合計は変化しないことになる。

 したがって、稼働率を下げても【準備金+在庫】としての流通資本は減らないのではないか? 

 生産を変動させないように、販売の変動を流通資本が吸収するのが本来の姿であるが、そのバッファーとしての流通資本の役割を生産過程における稼働率・流動資本の量の変動で吸収するという意味では、流通資本の役割が生産過程に潜伏しているといえるかもしれない。しかしそもそも流通資本がその役割を担わなくなっていることの方が重要な気がする。

I.その他

「資本は投下、費用は支出」について

以前、口頭で「資本は投下、費用は支出」ということを聞いたことがありますが、

 費用は流通費用のことか、費用価格のことか?

★334頁 下から6~4行目 数字が違うのでは? 

「195頁」→「193頁」

 下から6~5行目の式の係数はこれでいいのですか?

『経済原論』 質問項目 その2

2018年2月19日

A.資本と姿態変換について

A.1 姿態変換の必要について

A.1.1 資本の概念の問題

「売買を通じて姿態変換する(1) 本体の価値が増大しても、それはただちに運動体レベルでの価値増殖にはならない。この過程で支出された (2) 流通費用を控除しなくてはならない。」(92頁)

←①「価値の増大」と「資本の価値の増殖」という区別があるのか?(309頁の問題66解説も参照)

価値増殖と区別される価値増大とは、姿態変換(W’-G’)を経ていないという意味か?

「価値の増大」は売買差額が存在すること。商品と貨幣のレベルで規定可能。「価値増殖」は、「資本」の増殖。分母を投下資本額においた分子としての利潤の存在。資本のレベルでの「増殖」では、流通費用を控除した純利潤が利潤となる。

←②これは、売買には労力・資材が必要という市場の性質を認識する必要、そのための流通費用を明示的に計算・管理するフレームワークとしての資本の理解が重要、ということか?

そうです。

←③逆に言えば、流通費用が不要な商品は本体の価値増大を直ちに運動体レベルの価値増殖としてよいか? たとえば、集中的な市場で大量に売買される金融資産商品や、取引所で売買される素材的な商品(いわゆるコモディティ商品)

「取引所」で売買される商品も、流通費用はかかっている。諸々の手数料の存在。流通費用が仮にゼロの商品が存在するとしてとしても、概念的に区別されるべき。

 しかしこれらの商品は価格変動が大きいので、流通費用が不要としても、その時点での市場価格を基に販売していない段階でも価値増殖したといえるだろうか? つまり内在的な価値を持たず、市場価格は変動するので、増殖を確認した後で、価格の下落とともに増殖分は減少するかもしれない。その点を踏まえれば、(少なくとも名目額では)価値減少しない貨幣に死体返還した後、つまり価値実現の後で蔵相を確認するのが確実といえる。とはいえ資産としての価値評価のように、不確実で、後に修正されるとしても現時点での価値増大(あるいは増加、増殖)額を確認する必要もあるかもしれない。

「内在的な価値」をもたない商品に関しては、「価値増殖」を考えても意味がない。しかし、証券であれコモディティであれ、同種大量性を有する商品は、価格で表現される内在的な価値をもつ。

A.1.2 固定資本と姿態変換の問題

「資本は姿態変換を通じて、資産価値の評価を繰り返し行うことで増殖の事実を確かめる。この観点からみると、減価償却を通じて、期間をかけて部分的に投下された価値を回収する必要のある固定資本は、それ自体資本にとって厄介なお荷物である」(201頁「地代」の「土地資本」)

←①ここで「評価」が行われるというのは、購入と販売の二つか、それとも販売だけか? 貨幣の価値の不可知性を踏まえれば、保有貨幣に対する価値評価も商品の購入によって評価される、といえるのか?(通常の価値尺度とは逆)  ところで、そもそも「評価」とは価値尺度とは異なるのか? 

「価値尺度」というのは、(同じ価格での売り戻しを許さないかたちで)販売を通じて価格を確定し、商品の価値を「はかる」(「尺度する」)こと。貨幣の側がその価値を「はかる」(「はかられる」)ということはない。

←②姿態変換は、増殖の事実を確かめるだけで、増殖の事実は姿態変換におけるW’-G’ (あるいはG-W)の前に生じている、と考えてよいのか? (この質問はA.1.1①とリンク)

売買には不可逆性があり、価値増殖は不可逆性をもつ売買で「確定される」。ただ「確かめる」というだけでは、この不可逆性が示されない。

A.2 金貸資本形式G…G’形式、あるいは銀行業資本における姿態変換について

A.2.1  金貸資本形式は資本形式ではないか?

「自分の貨幣を貸して利子をとるという方式は、資本の概念規定に照らして、そもそも資本とはいいがたい。姿態変換を通じて価値増殖しているわけではないからである」…「考えられる形式はすべて「商人資本形式」に帰着する」(87頁)

←①銀行業資本との関係でどう考えるか? 

  1. 銀行業資本は自分の貨幣を貸すわけではない、ということか? 

  2. 銀行業資本も商人資本形式に帰着させられるような姿態変換を行っているのか?

そうです。ただ、それだけではなく、「資金」を安く買って高く売るというのでもないという点も含みます。このように、銀行業資本を、商人資本の形式G — W(資金or債券) — G’ で考えるのも誤りです。

←②ところで、山口『経済原論講義』では商品売買資本や商品生産資本の姿態変換(循環する本体部分)をそのまま「貨幣融通資本の形式」までつなげている。

「貨幣融通資本の形式」では、他の二つの資本の形式(商品売買資本・商品生産資本)と同様に、二つの部分に分かれる。一つは貸付・返済を繰り返す資本部分(あるいは証券を購入・販売を繰返す部分)であり、この部分は循環する資本の本体。もう一つは貸付活動のために支出されて消費されて、循環しない貸付活動資本部分(山口『経済原論講義』74‐75頁)

 こうして、金貸資本形式に相当する「貨幣融通資本の形式」を、【貨幣-債権(証券)-貨幣】という姿態変換として資本の循環運動に組み入れている。(価値増殖の源泉は貸付利子と、証券の価格差 同書75頁)

 しかし、価値の姿態は貨幣と商品のみだから、債権・証券が商品といえるのだろうか?

 遊休貨幣を利用する方法としての[債権・証券の購入-販売]は姿態変換、と定義してしまう方法もありうるか?

銀行業資本は、投下資本を姿態変換させるわけではない。商業手形のような債権を、自己の債務(銀行券や預金)と債権(割引手形や貸付金のような「資産」項目)に転換することで、この債権マイナス債務を粗利潤とする。

「貨幣融通資本の形式」で「貸付・返済を繰り返す資本部分」として、債権債務の部分をも「資本」にしてしまったのは誤り。銀行業資本とあらわれる資産・負債の全体と、銀行の自己資本を明確にするために、私は、「銀行業資本」と「銀行資本」という用語を区別してみました。

A.2.2 銀行業資本における姿態変換について

①しかし、債権と債務を両建てで拡大する銀行資本(銀行業資本)では姿態変換といえるのか? 姿態変換するかどうかを考察するとすれば、資産(債権・証券・営業資産)全体についてか、あるいは銀行資本(自己資本部分)についてのみか? 

②銀行資本(自己資本部分)はすべて「姿態変換しない流通費用」ではないのか(83頁、238頁)

この意味では、銀行業資本がそれ自体単独で独立に「姿態変換」していると規定することはできない(これはこれまで明言してこなかったことですが)。

「資金を買って資金を売る」というのではなく、「資金をつくる」と考えると、「貨幣融通資本の形式」のようなかたちで、既存の資本概念を銀行業資本に当てはめることはできないことになる。

さらに追求してみるべき論点:可能性として、流通費用を支出して相手の販売の可能性を調査する等して、そこに潜在している「将来の購買力」を「現在の購買力」に転換する行為を「生産」の一種として規定できる。したがって、銀行業資本も、時間軸上で、「資金を《生産》する」資本と規定できる。この点さらに検討したい。

A.3 姿態変換にかかわる諸問題について

A.3.1 貸借と賃料・利子について(72-74頁)

①貸借について。貸すモノと返されるモノとが、(1) 同一の場合と、(2) 同一だが消耗した場合があるのではないか? (1) 貨幣や種籾や土地は貸したモノと同じモノが返される。しかし、(2) 家屋や機材のレンタルでは消耗したモノが返され、賃料には純粋な賃貸料と消耗分への負担代が含まれる。

②なぜ同じモノか、消耗したモノか、という違いが生じるかというと、(1) では土地は本源的自然力なので消耗しない。種籾は再生産過程が借り手の中で完結するため消耗のない同じモノが返却される。貨幣は価値という社会的関係を体現したものなので消耗しない。他方(2) では、再生産過程が借り手の活動の範囲を時間的・社会的に超えているため、純粋な賃料の他に、借り手の外部で行われる、借りたモノの再生産の費用の一部を負担することになる。

種籾や貨幣は、対象物それ自身は消費ないし支払いに使用されるので、返済されるのは「同種」の別の対象物。「同種」ということであり、損耗とか摩損とかという問題は生じない。

「同一」の対象物による返済は、土地・家屋・機械など。ただし、この場合、「同一」といっても使用により破損・摩耗等の変化が生じている場合がある。この場合、同一物に戻すための費用が追加的に支払われる。これは(1)「用益の売買」だけではなく、(2)損耗部分の売買という要因が加わる。この(2)に関しては、借りたものと同じものを返すという貸借の原理から外れる。摩損した機械は、(1)そのものを返すと同時に、(2)摩損部分に対して「貨幣」で支払う、関係が生じる。この(2)と「用益」の価格(賃料)がともに同じ金額として現われ、両者の区別がむずかしくなる。

A.3.2 固定資本のレンタル業について

①固定資本のレンタル業は、(1) ファイナンシャルリースの場合は、借り手の固定資本の買い入れ資金を貸与する金融業であり、あまり問題はない。 他方、A.3.1(2)で想定されている (2) オペレーティングリースでは、一定期間の利用権を販売する商業資本といえるか? 

機械のレンタルを媒介する資本の場合、銀行業資本の場合と同様に、その自己資本がどのように使われるのか、分析してみる必要がある。さらに検討を要するが、基本は銀行業資本と同型である。自ら機械を買って、その機械を貸し付けるのではないであろう。

A.3.3 固定資本の定義について

「生産資本のうち、一生産期間を基準にその間に使い尽くされる部分を流動資本、それをこえて使われる部分を固定資本とよぶ」(184頁)

←①固定資本を生産資本のみで限定するのは、流通過程は不確定だから、ということか? (山口『経済原論講義』では流通過程を含んでいても固定資本・流動資本の区別がある)

そうです。

←②連続生産の圧延板、小麦粉など、生産物一単位が想定しがたい生産物については、物理的に投入物が生産(産出)に至るまでの期間を基準にすることになるのか? 

 

「固定資本」という用語をもし定義するとすれば、184頁のようにするほかない、ということです。ただ、この用語がどこまで現実の諸現象の記述に有効かは、あらためて考える必要があります。連続生産も含め、複雑な生産過程に関して、固定資本・流動資本の二分法を適用することには無理があります。この二分法は、利潤率の計算原理を説明するための抽象化された領域での概念規定と理解しておくべきです。

A.3.4 貨幣の価値の不可知性と増殖の確認について

「致富衝動は、その価値量が不可知な貨幣を貯め込むことでは満たされない。この限界が資本の運動を生む」(65頁)

←貨幣の価値が不可知であれば、個別の商品の価値も不可知であろう。であれば価値増殖自体も不可知ということにならないか? 通常の経済原論では貨幣の価値の安定性が前提になっている。そこを変えると、貨幣から資本への論述の展開箇所以外の他の箇所にもいろいろと波及してくるのではないか? 

 (※山口『経済原論講義』54頁「資本は貨幣の循環運動体である」)

価値の「安定性」と「不可知性」は区別して考える必要がある。「不可知性」というのは「不可測性」のこと。統一的な表現をもたないという意味です。商品の価値は、何円というかたちで統一的に表現されますが、この「円」の価値、つまり購買力がいくらかは、せいぜい、さまざまな価格の加重平均としてしか表現できない。「指数のパラドックス」の問題に典型的に示される不可知性があるわけです。ここから、「転売」による価値の維持=増殖の必然性が生じるわけです。

したがって、貨幣価値の相対的の「安定」をいうことは、不可知性をいうことと背馳しません。

B.その他

B.1 流通資本と流通費用

「流通資本の基本は、商品在庫と貨幣準備である」(184頁)

←①82頁「運動体」の項の想定では、100万円の投下資本のうち、商品買取部分が40万円×2=80万円、流通費用として支出される部分が20万円、とある。この20万円はあらかじめ資本として用意(前貸)される部分で、なおかつ流通過程にあるのだから「流通資本」でよいか? (商品買取資本も流通資本)

 流通資本には「基本」以外の部分があり、基本以外の部分とは、将来、流通費用として支出される、循環しない資本部分(など)としてよいか? 

基本は、資本の「投下」と貨幣の「支出」をはっきり区別すること。あらかじめ、生産資本と流通資本が別々に投下されると考えると混乱が生じる。投下資本のうちには、繰り返し定額で支出回収される費用があり、これが「生産資本」を構成する。投下資本はこれを上まわる残余が必要で、この部分が「流通資本」である、と規定するべき。流通費用は、この残余部分をベースに支出されるが、売買差額から支払われることもあり、流通資本→流通費用という一義的な関係にはない。問題134(215頁)では、売買差額から支出されるケースを想定している。表の下のアステリクスの註記をみられたい。

たとえば、a) 商業施設は流通資本の「基本」以外の部分である。b) 商業施設建設のために支出された費用は循環しない資本部分である。c) 利潤率計算の期間を設定すれば、その資本額は複数の期間にわたって粗利潤から徐々に回収される、ということでよいか?

循環する部分と循環しない部分というように、投下資本を並列で二分することによる困難。「投下資本−生産資本=流通資本」として規定することで解決すべき問題。商業施設を、生産設備のように考えて、同じように減価償却するかのように考えるべきではない。商業施設ははじめから、すべて流通資本であり、改修補填する対象ではない。

B.2 銀行資本の内訳について

②238頁の「銀行資本」のうち、信用調査などに支出されて循環しない部分は流通資本としてよいか? 他に、支払サービス業務に充てられる部分は産業資本の費用価格に相当し循環する資本部分、支払準備に充てられる部分は循環しない流通資本部分か? 

その通りだが、循環する部分と循環しない部分に、並列に分けようとするとさまざまな疑問が生まれる。

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