『資本論』第一巻を読む IV:第8回

  • 日時:2018年3月20日(水)19時-21時
  • 場所:銀座経済学研究所
  • テーマ:『資本論』第1巻第20章

 

銀座での『資本論』を読む会は、これが最後です。今回はかなりむずかしい章です。国際価値論としてかつて盛んに議論された問題の原点となる章です。ただ、問題は、狭い意味で、価値論の整合性にあるのではなく、発展段階を異にする経済圏の間の関係をマルクス経済学がどう捉えていったらよいのか、という方法論にあります。そこまで今回は踏みこみませんが、いわばこの開口部を少しだけのぞいてみたいと思います。

第20章「労賃の国民的相違」

第20章「労賃の国民的相違」

概要

この章はだいたい3つの部分に分けられますが、最初の原理的な部分はかなり難解です。

  1. 原理的考察
  2. 賃金と生産性の歴史的例解(レッドグレイヴの調査)
  3. 賃金と生産性の理論的誤謬(H.ケアリ批判)

原理的考察

第一パラグラフは、

  1. 労働力の価値の変化と独立に、労働力の価格(労賃)は変動するという指摘。← これは本質的な問題ではないと思う。
  2. 国民的比較には以下を考慮する必要がある
    1. 生活手段の量Bと価値t
    2. 教育費(養成費)
    3. 婦人労働・児童労働の役割
    4. 労働生産性
    5. 労働日の長さ(外延的大きさ)
    6. 労働の強度(内包的大きさ)
  3. 比較のプロセスには、次の操作が必要
    1. 労働日を揃える(時間あたり賃金で比較する)必要
    2. 時間賃金 → 出来高賃金(1時間あたりの生産物量で比較するということ)

労賃の国民間の比較が、労働生産性を含めたかたちでおこなわれているのが、最大の特徴であり問題でしょう。

第2パラグラフ:価値法則の修正① 中位の強度の計算の仕方が異なる。国内では標準以下の強度は切り捨て、標準以上の強度のものが追加的な価値を生産する。これに対して、国民間では全体の平均になる(「階段状」の平均)。← こうなる理由も、この結論のもつ意味も私には不明です。

第3パラグラフ:価値法則の修正②生産性の高い国民の労働は、より強度の高い労働として計算される。

第4パラグラフ:労賃と貨幣価値の関係:テキストを例解してみます。A国では10時間に小麦が20kg,B国では10時間に小麦が10kg,生産されるとする。もし労働時間に比例して価格が決まる(国際的な等価交換がなされるなら)A20kg = 金1g, B10kg = 金1g
Aでは1kg = 1/20gの金=1シリング, Bでは1/10g=2シリング。つまり生産性の高いA国の物価は、B国より低い = A国の貨幣の価値は、B国より高い。ということになる。
ところが、国際間ではこの等価交換が成り立たない。
(「異なる分量は … 異なる貨幣額で表現される」という文の解釈次第では、金1gという同じ貨幣額ではなくなるのかもしれない)。
つまり
A20kg = 金4g, B10kg = 金1g
1kg = 1/5g,1kg = 1g
というように考えているのではないか、というのが私の解釈です。こうならないと、生産性の高いA国の貨幣価値が、生産性の低いB国より低い、という結論にはならないように読めるのです。
労賃が小麦5kgであるなら A国の「名目的労賃」は金1g, B国は金0.5gとなる。「名目賃金も、第一の国民のもとでは、第二の国民のもとでよりも高いであろう、ということになる」

第5パラグラフ:「相対的労働価格」の比較:これは労賃の比較ではなく、剰余価値率の比較になっていると読めます。
物量で考えると「相対的労働価格」は、A国 小麦5kg/20kg 対 B国 5kg/10kg
貨幣額で考えると、金(1/5g)/4g 対 0.5g/1g
ということで「第二の国民のもとでは第一の国民のもとでよりも高い」という結論になる。

細かく追ってみたのですが、ポイントは労働時間に比例した価値決定が、国際間では成立しないという想定にあると思います。問題はその想定の根拠が、理論的に明確にされていない点にある、これが私の印象です。国際価値論論争を追ったことはないのですが、『資本論』の解釈から、原理を導くことができるか、私には疑問です。

賃金と生産性の歴史的例解

第6〜8パラグラフは、レッドグレイヴによって、労働生産性の比較を例解した部分です。ひとりあたり紡錘でイギリスが74錘でトップ。「賃金の高さは、… 相対的な労働価格は…正反対に動く」というのは、生産性が高いイギリスでは、剰余価値率が高いということ。もし名目賃金が多少上がったとしても、それ以上に生産性が高まるから、というのでしょう。

賃金と生産性の理論的誤謬

ケアリが<生産性が高い国では賃金が高い>と唱えたことのへの批判。これにケアリの保護主義(アメリカンシステム)批判が加えられている。

論点

  1. この章では、同種商品を生産するという想定で、国民間の労賃の比較が問題にされています。しかし、国際価値論の基本は、異なる商品を生産する国の間の「貿易」における交換比率の決定です。
  2. 『資本論』第1巻の基本は、イングランド一国の国内を対象に、等価交換がなされる(労働価値説が貫徹する)なかで、資本による「搾取」がなされる関係を明らかにすることにあります。これに対して、不等価交換によって、結果的に、植民地が「収奪」される関係が、丸く遂行のマルクス経済学では問題になりました。もっとも、帝国主義国と植民地の関係はこのような貿易によるのではなく、経済外的なゲバルトによる「収奪」が中心で、マルクス経済学の『帝国主義論』も、国際価値論との接点は希薄です。
  3. 貿易における不等価交換による「収奪」は、マルクス経済学のなかでも周辺的な問題とされてきたのですが、第2次大戦後、南北問題が焦点となるなかではじめて注目を浴びるようになったと思います。南の一産品の低価格が、発展途上国の発展を阻害している、北の労働1時間の工業製品で、南の労働10時間の農産物が輸入されている関係を通じて、南の余剰が北が収奪されているという理論は、『資本論』にありそうでないのです。この第20章で少しだけ示唆されているのは、<国民間では、労働時間に比例した価値で労賃を比較することはできない>という消極的な命題までです。国際貿易における不等労働量交換による収奪につながる考察は薄弱です。
  4. 第三のケアリ批判は、短いですが、少なくともヨーロッパとは異なる存在としてのアメリカ合衆国の発展を対象にしているので、戦後の南北問題につながる、交易を通じた収奪(搾取)の問題に発展させる余地はまだ多少あるかもしれません。マルクスにはこのような考えはないでしょうが…
  5. 「貿易を通じた収奪」、これはマルクス経済学にありそうでない理論です。

    1. 等価交換に基づく「搾取」に焦点をあてた『資本論』
    2. 帝国主義論:金融資本による直接投資

    しかし、現代の資本主義を考えるうえで、資本主義と外部の関係を『帝国主義論』の枠組みで捉えることができるのかは、根本的に再検討する必要がある。ポイントは、貿易を通じた余剰の吸収という概念の成否にある。うえの二つのほかに、不等価交換による南からの収奪、という第三の関係を考えられるかどうか。

  6. 一帯一路など、あらたなグローバリズムをみると、外枠は強力な軍事政治的関係で固めながら、その内部では、交易関係を拡充する、2段構えの構造になっている。外枠は帝国主義的だが、内容は自由貿易、という関係である。内部までゲバルトで収奪するのではなく、市場の原理の拡大が中心である。このような2段構えの構造で、中心部分の市場でどのようなかたちで余剰が収受されてゆくのか、考察できる理論枠が必要なのはたしかである。

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