『資本論』第一巻を読む V:第2回

  • 日 時:2018年5月17日(木)18時30-20時30
  • 場 所:文京区民センター 2階2D会議室
  • テーマ:『資本論』第1巻 第22章第1節

ふたたび場所を変更しました。会場費500円です。ご自由にご参加ください。

第22章「剰余価値の資本への転化」その1

 

この章はちょっと長いので、2回に分けて読んでゆきます。第1節は、『資本論』に特徴的な論法が典型的なかたちで示されているところなので、これに対して私がどういう接し方をしてきたのか、包み隠さず申しあげます。

1. 概要

1.1. 第1節「拡大された規模での資本主義的生産過程。商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への転換」

1.1.1. 転換 Umschlag について

この節の主題は、節のタイトルにある「転換」Umschlag の話です。Umschlag を辞書で引くと”封筒”とでてきます。umschlagen が”折り返す”ですから(ちなみにschlagen は hit,beatだそうです)、折り返して何かを包み込む、というニュアンスが含まれているのでしょう。手前勝手な推測で、おまけに私のドイツ語は我流なので、間違っているかもしれません。ともかく、単にAが、それとは別もののBに「転換」する、というだけではなく、AがBに包み込まれて見えなくなる、ということが、この Umschlag の意味なのではないかと思います。

『資本論』で繰り返し論じられてきた、AがBになって見える、AがAそのものとしてではなく、Bとなって現実に力をもつ、というタイプの議論が、ここでの主題ということになります。私自身は、このタイプの議論は前にも書いたように、”敬すといえども頼ることなし”(マルクス自身が言う分においては、そのオリジナリティを大事にしますが、これをまねて語ることは厳しく自戒する)という姿勢で接してきました。マルクス経済学者は、このタイプの議論に深入りしすぎる、と私は考えています。少なくとも、だれがだれにいっても通用する普遍的な言説だとして、学問的に論じうるかのように言い過ぎると思います。

極端な言い方をすれば(そしてちょっとズルいですが、「ここだけの話」という逃げ口上が許されるなら)、『資本論』のなかでも、この章に特徴的なこの種のイデオロギー論(ちなみに次の第23章は明らかにトーンが違います。統計データも含めて、だれが読んでも同じ結論になる(べき)、真偽を問うべき「科学」science が基調です)は、一種の「文学」literature だと思って私は読んでいます。もちろん、文学だから意味がないということにはなりません。マルクスにしかかけない、しかし読んでおもしろい、鑑賞に値するユニークなテキストです。こうした議論に対して真偽を問うのは、太宰治の小説に対して真偽を問うのと同じくヤボというものです。太宰治の小説が読者を惹き込む、あの独特の語りかけのテクニックを分析することはできます(良い小説は良い評論を生みます)が、耽読のあげく、いつのまにか自分も太宰治になった気になった人の小説ほど読んでて気恥ずかしいものもありません。マルクスのテキストを長年読んでいると、この種のイデオロギー論的な語り口が自然に身につきます。しかし、そのときは、イデオロギー的議論は真偽を問えるような問題ではなく、美醜の問題とまではいいませんが、説得力の問題だということを再自覚する必要があります。私は、マルクスのテキストが、私自身にも、そしてある種の読者に対してとりわけ強力な、あのような説得力をもつのはなぜか、には興味があります。ただそのうえで、そのテクニックを意識的に分析し、マルクスと自分の違いをわきまえること、そのユニークさをハッキリさせること、こそ重要だと思っています。

このような私の読み方は、『資本論』を読む者のなかでは、かなり異端に属するのかもしれません。いつも誤解されることなのでもう一度繰り返しておきますが、私はこのUmschlag のようなタイプの、『資本論』に独特な議論を、誤っているとか、無視してよいとか、いっているのではありません。厳密に、正確に解釈し、しっかり批評すべきだといっているのです。解釈をいい加減にして、『資本論』を”摘まみ読み”(?)したり、「マルクスもいっているように」などと、自分の言説を権威づけるために使うのはいちばんよくないと思っています。ところが困ったことに、気の利いた惹句が随所に散りばめれているマルクスのテキストは、こうした人たちにとって、とても魅力的なもののようです。よくマルクの言葉として、短い断定的なセンテンスが、本の扉などに引用されていますが、しかし、『共産党宣言』などのパンフレット類はいざ知らず、少なくとも『資本論』の基本はアフォリズムではありません。『資本論』の基本は、真偽を問うべき科学の書です。

ただ逆にまた、マルクスの議論には、こうした通俗的な読者によって捏造されてしまった真理がある、よく読めばわかる隠された深淵がある、と信じ込むのも、『資本論』をドグマ化するものだと思います。そこに書かれていることが、マルクスを離れて、一般的に妥当するのかどうか、を自己責任で説明しないのが、”ドグマ”という意味です。「解釈として正しい」ということとと「解釈された内容が真である」ということは別なのですが、俗説に対して正しい解釈を追い求める人たちのなかには往々にして両者の混同がみられます。たとえば、この第22章を作者不明のテキストとして読んでみて、この主張はどこまで正しいのか、正しいと思うなら、マルクスを持ちださずに、自分がふだん使っている言語で、第三者に説明できるかどうか、ブラインド テストしてみるべきです。

1.1.2. 「資本の蓄積」とは

第1パラグラフは「資本の蓄積」の定義が書かれています。

どのように資本から剰余価値が生じるかはさきに考察したが、いまや、どのように剰余価値から資本が生じるかを考察することになる。剰余価値を資本として用いること、あるいは剰余価値を資本に再転化することは、資本の蓄積と呼ばれる。

この定義からすると、少なくとも「いわゆる本源的蓄積」は「資本の蓄積」ではないことになります。用語法として「蓄積」は「再生産」という用語と同じように多義化しやすいので意識的に区別する必要があります。

さらにまた、この定義によるかぎり、資本構成不変の蓄積も高度化の蓄積も、蓄積である以上、「追加資本」部分に関する不変であり高度化です。「更新投資」によって新しい機械設備が導入されても、これは資本構成高度化の蓄積とはよべないことになります。原資本と剰余価値を分離して考える、貨幣資本ベースの第21章「単純再生産」の概念構成から再検討してみる必要があります。「再生産」と「蓄積」という基礎概念の間の関係が、よく考えてみるとけっこう難しいのです。

第2パラグラフから第9パラグラフ(注21bの直前まで)は、これを具体化した説明です。原資本 G — W — G の運動に対して、ΔGではじまる運動を取りあげ、ここでは

    • 剰余価値が剰余地を生む関係になっている点
    • 蓄積のためには追加的な生産手段がすでに生産されていなければならない点
    • 追加的労働力も必要となるが「彼らの普通の賃銀は、彼らの生活維持ばかりでなく彼らの増殖をも十分保証するのに足りる」(S.607)点

が強調されています。

1.1.3. 追加資本第二号の話

第10パラグラフから第16パラグラフ(注23のまえ)まででは、追加資本第一号と第二号を比較することで、”資本が資本を生む”ことが説明されている。第一号では、自己労働による(と考えられている)原資本によって、不払労働が取得されているが、第二号になると不払労働で不払労働が取得されるように自己展開されるというのです。

剰余価値率を規定した諸章では、剰余労働を「不払労働」とよぶことに対してマルクスは慎重だったのですが、ここではむしろこの用語が積極的に使われているようにみえます。

第16パラグラフはこの章のハイライトだと思いますので読んで検討してみます。

追加資本第一号を形づくる剰余価値が、原資本の一部分による労働力の購入の成果であって、この購入が商品交換の諸法則に照応し、また法律的に見れば、この購入が、労働者の側では彼自身の諸能力にたいする、貨幣および商品所有者の側では彼に属する価値にたいする自由な処分権のほかにはなにも前提しない購買である限りでは、また、追加資本第二号などが追加資本第一号の成果にすぎず、したがってあの最初の関係の帰結である限りでは、さらにまた、個々のどの取り引きも商品交換の法則に絶えず照応し、資本家はつねに労働力を買い、労働者はつねにそれを売り、しかも — われわれがそう仮定しようとするように — その売買は労働力の実際の価値どおりで行なわれるものる限りでは、商品生産および商品流通にもとづく取得の法則または私的所有の法則は、明らかに、それ独自の内的で不可避的な弁証法によって、その直接の対立物に転換する。最初の操作として現われた等価物どうしの交換は、一転して、外観的にのみ交換が行なわれるようになる。というのは、労働力と交換される資本部分そのものが、第一には、等価なしに取得された他人の労働生産物の一部分にすぎず、第二には、その生産者である労働者によって補填されなければならないだけでなく、新しい剰余をともなって補填されなければならないからである。したがって、資本家と労働者のあいだの交換関係は、流通過程に属する外観にすぎないものとなり、内容そのものとは無縁な、内容神秘化するにすぎない単なる形式になる。労働力の不断の売買は形式である。内容は、資本家が、絶えず等価なしに取得[第一号の場合]、すでに対象化された他人の労働の一部分を、より大きな分量の生きた他人の労働と絶えず繰り返し取り替える[第二号の場合]ということである。所有権は、最初には、自分の労働にもとづくものとして現われた[原資本の場合]。少なくとも、この仮定が妥当とされなければならなかった。なぜなら、平等な権利をもつ商品所有者だけが相対するのであって、他人の商品を取得するための手段は自分の商品を譲渡することだけであり、そして自分の商品はただ労働によってのみ生産されうるものだからである。所有は、いまや、資本家の側では他人の不払労働またはその生産物を取得する権利として現われ、労働者の側では自分自身の生産物を取得することの不可能性として現われる。所有と労働との分離は、外見上は両者の同一性から生じた一法則の必然的帰結となる。

1.1.4. 「商品生産の所有法則」の「資本主義的取得法則」への転換

第17パラグラフから後は、この節の基本テーマが論じられています。次の第32パラグラフが結論です。ここでは

  • 自己労働に基づく「私的所有」の原理を仮に認め
  • 労働力が価値どおりに売買されても、剰余価値は形成されること

をふまえて、そこから必然的に、剰余価値が剰余価値を生む関係が発生することが明らかにされる。

剰余価値は、諸商品と同様に労働力が価値どおりに売買されるから発生する、という第1巻前半の命題①にたいして、自己労働に基づく所有(私的所有の法則 die Eigentumsgesetze der Warenproduktion)が、剰余価値が剰余価値を生む(資本主義的取得命題 die Gesetze der kapitalistischen Aneignung)関係に「転換」する umschlagen という命題②が追加される。

命題①は、労働力商品の価値規定を認めれば、if-then 関係で演繹されますが、命題②はちょっと違います。命題①は、前提 T → 結論 T のスタイルです。命題②は、いちおうif-then 関係になっているよう見えますが、前提の性格が違います。「自己労働による所有」というのは、外部から持ち込まれた仮の命題です。労働力の価値規定は、『資本論』の内部で積極的に説明され私事さているのに対して、「自己労働による所有」というのは、『資本論』の内部ではありえない前提です。資本はどうしてはじまったのか、それは自分で労働して財産を築いたからだ、資本家は自分の労働で資本(原資本)をつくったのだ、というのは、俗説であり、そのもの自体が偽Flaseで、資本は略奪で形成されたという「いわゆる本源的蓄積」が真Trueでしょう。この偽Fの前提を認めたとしても、資本が資本を生むという真Tの結論がでてくるという内容になっています。F → T のスタイルです。

命題②は、説得すべき相手がいてはじめて意味をもちます。つまり、誤った前提に立っている相手に対して、その前提が誤りだ、というと、水掛け論になる。そこで相手の前提を認めて、その前提にしたがって相手が受け入れようとしない自分の結論を導きだす、”仮に君のいうとおりだとしても、結果的には私のいうことになるだろう”という論法です。こうした論法は、たしかに、論争のなかでは有効です。弁証法というのが、弁証つまり対話を通じて相手を説得する方法なら、ある意味で自然な方法です。自ら無知を装い、相手に前提を認めて、その前提から問答で相手を矛盾に追い込んでいった、ソクラテス型の議論のしかたです。しかし、学問の方法としてこれは妥当なのか、論法のテクニックは理解できるのですが、自分もこれをやるか、と問われれば、私はやめておきます。相手あっての(相手と自分の間での)真理であり、普遍的な真理にはならないからです。

1.1.5. プルードン批判

このパートの主張は、第30パラグラフに集約されます。

こうした結果は、労働力が労働者自身により商品として自由に売られるのと同時に、不可避となる。しかしまた、そのときからはじめて、商品生産は一般化されて典型的な生産形態となる。そのときからはじめて、各生産物も最初から版売のために生産され、生産きれた富はすべて流通を通過するようになる。商品生産は、賃労働がその土台となるときはじめて、全社会に自分を押しつける。さらにまた、そのときはじめて、商品生産は隠されたすべての力能を現わす。賃労働の介入は商品生産を不純にするなどと語ることは、商品生産が不純にされたくなければ発展してはならないと語るに等しい。商品生産がそれ自身の内的諸法則に従って資本主義的生産に成長していくのと同じ程度で、商品生産の所有諸法則は資本主義的取得の諸法則に転換する。

これにつけられた次の注を読めば、この節のネライがプルードン型の市場社会主義への批判にあることは明らかです。

それゆえ、人々はプルードンのずるさにおどろくのである。彼は、資本主義的所有に対立させて商品生産の永遠の所有法則を有効だとすることによって、資本主義的所有を廃止しようと!

この問題に関していえば、プルードンは自己労働に基づく所有を普遍化し、これに基づく商品経済を主張するが、商品経済はつねに資本主義経済として全面化するのであり、資本主義経済の起源は自己労働にあるのではなく、暴力的な略奪による「いわゆる本源的蓄積」にあるのだ、と真っ正面から批判すべきだと思います。前提で争うのは「神々の戦い」になってしまう、といえばたしかにそうですが、だれがだれに言っても真である命題を追求する学問の世界では、愚鈍に見えても、正しい前提から正しい結論を導く以外ないと「私は信じています」(そのかぎりでは、これもドグマだと自覚しながら)。

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