『資本論』第一巻を読む V:第3回

  • 日 時:2018年6月28日(木)19時-21時
  • 場 所:文京区民センター 2階 E会議室
  • テーマ:『資本論』第1巻 第22章第2-5節

第3週の木曜から第4週の木曜に変更しました。会場費500円です。ご自由にご参加ください。

第22章「剰余価値の資本への転化」その2

 

1. 概要

1.1. 第2節 拡大された規模での再生産にかんする経済学上の誤った見解



最初の2段落で、蓄積を「収入」を「生産的労働」に支出することだと捉えた、古典派の正しい側面を評価した後、これに続いて第3パラグラフ以降で、古典派、特にスミスの犯した誤りを批判してゆきます。



批判は、2段階でおこなわれていますが、基本は2段階目です。

  1. 第1段:蓄積はすべてvに投下されるのではなく、cにも投下されなくてはならないこと
  2. 第2段:蓄積されたc1も、v2+c2 となり、このc2をどんどん分解してゆくと、すべて「生産的労働」によるv+mになる。



第1段は、見てすぐわかるように誤りです。スミスもこの意味でいっているのではなく、第2段の意味で、蓄積された資本はすべて「生産的労働」に支出される、といっていると考えるべきでしょう。そして、この「cのv+mへの還元」はΔGが投じられる蓄積部分にかぎる話ではなく、生産物全体に関して、その価値を構成するc+v+mのうち、不変資本cはすべて生きた労働v+mに還元されるという「スミスのドグマ批判」(『資本論』第2部第19章「対象についての従来の諸叙述」とくに第2節「アダム・スミス」)として再論されています。

第2巻を読むときに申しあげればよいことかもしれませんが、マルクスによる「スミスのドグマ批判」について、私の批判を摘記しておきます。

  • 「c+v+m のcを次々にさかのぼって分解すればv+mになる」という命題Pは正しい。c->0 は c=0 とは違うという問題は、数学の「極限」の話になりますが、基本的にcはゼロに収束するはずです。
  • 「生産系列をさかのぼってゆくと、その末端に生産手段ゼロの生産過程が実在する」という命題Qは誤りである。第2部で批判されたスミスの、いわゆる「スコットランドの瑪瑙採取」型の労働過程がないとv+mへの還元はできないということにはならない。



命題Pは、「商品の価値は、その生産に直接・間接に必要な労働時間によってきまる」という命題Rと同値です。命題Rが真かどうかは別にして、これを認めておいて、命題Pを否定するのは、排反律に反する矛盾です。



命題Qについていうと、もし極限まで分解できるなら、このc->0のところでは、生産手段が限りなくゼロの生産過程、瑪瑙採取型のv+mだけの生産過程があるはずだ、と思うかもしれませんが、これは錯覚です。ここではcだけがゼロに収束すのではなく、同時にv+mもゼロに収束しています。全部が小さくなるので、cだけが小さくなるのではありません。虫眼鏡で拡大してみると、はじめのc+v+mとよく似たかたちの、小さなc+v+mが見えるはずです。



この錯覚は、放置しておくと、重大な誤りに生みます。宇野派のドグマです。「価値法則の論証」が、労働時間に比例した交換の必然性を積極的に明らかにする試みとして、1960年代後半から、宇野弘蔵の『経済原論』における「価値形成過程」の解読というかたちをとって、宇野弘蔵の継承者の間で広くおこなわれるようになりました。労働力商品を資本主義の基本矛盾だと主張したことの外延として、労働力の「再生産」を維持することが「経済の原則」だと捉え、剰余労働がまだおこなわれていない「価値形成過程」つまりc+vだけで構成されている社会的再生産を想定し、ここで「もし労働力が再生産されるとすれば、労働時間に比例した生産が必要不可欠である」という命題をもって、価値法則の論証、労働価値説のコアを明らかにするという考え方です。ここでは生産手段のcの間の交換が問題になるわけすが、スミスの瑪瑙生産と同様に、cをc+vに分解して、その末端になぜかcのない生産過程がおかれています。



些細なことに見えるかもしれませんが、労働価値説のコアある考え方、再生産に不可欠な「補填」関係が、需要供給に先行して商品間の交換比率を規制する力をもついう客観価値説(労働価値説はさらに追加条件が必要な部分集合)の根本に関わります。この規制力の原因となるのは、労働力の補填なのか、生産手段の補填なのか、宇野派の論証はcを分解することで(できないことではありませんが)、けっきょく労働力の「補填」が価値法則の源泉だ、という主張になっています。いわゆる「単系列」論による論証です。



しかし、労働力はもともと生産・再生産されるものではありません。「絶対的剰余価値の生産」が剰余価値の第一原理だ、ということ自体、労働力にどれだけ投入すれどれだけ産出されるのかに、本源的弾力性があり、生産技術的な一意性がないという命題に立脚しています。必要生活手段の補填を基盤とすることは、客観価値説のコアをなす再生産をしばる生産技術の一意性を曖昧にすることになります。私の結論は、客観価値説を論証する場合の基本は、生産手段の相互補填のほうにある、というものです。これがコアで、労働力に関しは労働市場と生活過程が資本主義的に構成されることを前提に、このコアと同等の原理が貫かれるようになると考えています。



「客観価値説」を論証するとすれば、それは、賃金率決定の原理が与えられれば、生産技術だけで利潤率を均等にする生産価格がきまる、という味も素っ気もない命題になります。基本は、スラッファや置塩信雄さんが早くから明確していたことで、ここまで退けば、市場の一般均衡論をベースにした新古典派のミクロ理論に対して一歩も引けをとらない、頑健な価格決定論が構築できるということになります。ただマルクス経済学の本領は、この価格決定論のうえに、「商品在庫と貨幣が常駐する市場の理論」を構成できる点にあり、それは資本主義経済の歴史的な構造変化すなわち「変容」を説明する基礎理論として不可欠な要素だ、というのが私の結論です。



話がかなり広がりすぎましたが、①v+mへの還元自体は正しいこと、ただそれは②cがゼロの生産過程を必要としないこと、逆に③cがゼロの生産過程を想定して「価値法則の論証」を労働者による生活手段の「買い戻し」に求めたことは誤りであったこと、を述べてみました。

1.1.1. クイズ

最後にクイズをだします。この節は、単一の文からなる次のパラグラフがで終わっています。

なお、純生産物のうちから資本に転化される部分がすべて労働者階級によって消費されるというA.スミスの命題を、経済学が資本家階級のためにぬかりなく利用したのは、自明の理である。

  1. この「経済学」は、だれの経済学を念頭においたものでしょうか。人名を答えてください。
  2. どのように「利用した」のでしょうか、具体的に説明してください。



けっこう難しいかもしれません。論理だけで答えることはできませんから。私はこうしたクイズは苦手です。ただし、いままでいっしょに第1巻を読んできた人には、もう見当がつくと思います。正解はここにあります。

1.2. 第3節 剰余価値の資本と収入とへの分割。節欲節



この節もイデオロギー論の一種といってよいでしょう。剰余価値が蓄積部分と資本家の個人的消費とに分割されるわけですが、この分割をファンクショナルに分析するのではなく、「資本の人格化」としての「資本家」が実際にはかかえることになるジレンマに焦点をあてた記述になっています。『資本論』には剰余価値がどれだけ蓄積に振り向けられる、この割合(蓄積率θ)をたとえば利潤率(r)の関数として捉えるようなアプローチ(θ = f(r))はほとんどないと思います。ケインズ派の影響をうけた人たちの間には、この蓄積率の変動で景気循環を捉える傾向があるのですが、やはり利潤率が下がってくると、蓄積を抑制するということはない、という立場です。



中身について見てゆきます。



最初の4パラグラフ(注24ルターの引用まで)は、「資本の人格化=資本家」論です。「貨幣の資本への転化」のときもそうでしたが、(1)貨幣蓄蔵者との対比、(2)宗教世界との重ね合わせ が特徴的です。(1)に関しては、この点を強調すると、資本のコア概念が貨幣を増加させるだという俗説に傾く副作用があります。少なくとも、違いのほうにウエートをおいて捉えるべきでしょう。(2)についても、たしかに資本家の行動動機を説明する意味では、本人の「つもり」と、なぜその「つもり」になったのか、の間には、ギャップがあり、あとの理由を社会環境で説明するというアプローチをとると、宗教世界は格好の題材になるのだと思います。ただ、このことはやはり資本概念を厳密に与えるうえでは副作用をもちます。「ルターは、… 古風な資本家の形態である高利貸しの姿のなかに、…」(注24)というのですが、高利貸しを資本としてしまうことは私はまずいだろうと思います。



第5パラグラフから第8パラグラフまで。資本家のタイプ論。古典的資本家=消費の「節制」”Enthaltung” von der Akkumulation = 古典派経済学 vs. 近代化された資本家 der modernisierte Kapitalist = 「禁欲」”Entsagung” seines Genußtriebs = 俗流経済学(マルサスの地主階級の役割をへて)。『資本論』の場合、これを資本主義の発展「段階」と結びつける観点はないようです。



節制と禁欲はどう違うのか、わかりにくいですが、節欲のほうは、蓄積が第一使命だと考えていて、節制=使命の放棄=棄権 abstention 、本位やるべきことをサボっている、という意味なのに対して、禁欲のほうは、本来、浪費して楽しんでよいところを、我慢した、もっと殖やして、お楽しみは後から… と意味で、蓄積を使命だとは考えていない、ということなのでしょう。しかし、両者は必ずしも矛盾するわけではないので、この対比の意味は、いまひとつハッキリしません。



たとえば、もし、禁欲説に立つと、利潤率がさがってくると禁欲のデメリットとの比較で、蓄積をやめて消費に回す、蓄積率θがさがる、これに対して、節制説だと、どんなに利潤率が下がろうと、プラスの利潤があれば、「蓄積せよ、蓄積せよ、これがモーゼであり、予言者たちである」という行動が続く、といった目に見える違いがあるなら、わかるのですが、資本家の蓄積動機は何か、といった一般論では、違いは相対的なものに見えてしまいます。



第9パラグラフは、シーニア Nassau W. Seniorの「資本=節欲 Abstinenz (Enthaltung)」説批判です。先の「節制」も 同じ Enthaltung なのですが、意味が違います。資本が消費を蓄積という使命を放棄したというのがさっきの「節制」で、これはいま、消費せずに将来に回すのがシーニアの「節欲」の意味です。おそらく、この時代、マルクスはどこまで意識していたかわかりませんが、オーストリア学派の迂回生産論の先駆けのような議論もあり、シーニアの議論もいま消費せず、生産を通じて将来より多くを消費する、期間利子とか、機会費用といった、いまでも近代経済学の人たちが普通に使う考え方を示唆しているのでしょう。ここでは、用語の問題として俗流シーニアを揶揄するかたちになっていますが、20世紀に台頭してきた、時間軸上の選択で利子を増殖として捉える理論を、理論としてどう批判すべきか、われわれに残された理論問題だろうと思います。



第10パラグラフは、リチャード・ジョーンズ Richard Jones の資本を媒介としないインドの拡大再生産の話で、「うまく論じている」とめずらしい高評価です。ちょっとジェームス・スチュアート(vgl.S.352注22)を彷彿させるところがあり、マルクスはこうした歴史的発展を射程におさめた理論と肌が合うようです。

1.3. 第4節 剰余価値の資本と収入とへの比例的分割から独立して蓄積の規模を規定する諸事情 — 労働力の搾取度、労働の生産力、使用される資本と消費される資本の差額の増大、前貸資本の大きさ

1.3.1. 労働力の搾取度



第1ー4パラグラフ。ここでいう「搾取度」は労働力の価値以下への賃金の切り下げです。搾取度=剰余価値率と考えて読むと混乱します。収奪度と考えてよい内容です。このような収奪によっても、たしかに、資本の蓄積は増進するといえばいえますが、資本主義の基本原理を考えるうえで、このウエートをどう考えるべきか、少なくとも、資本主義的発展に収奪による蓄積が必須であるかどうか、問題になります。資本主義は、その成立のところでは原始的蓄積=収奪を必須としたが、ひとたび成立すると、収奪なしに「自立的発展」ができる、というのが、宇野弘蔵の純粋資本主義論に馴染んできた者には了解しやすいのですが、ここはちょっと違います。むかし望月清司さんたちが、資本主義というのは、延長された原始的蓄積を耐えずともなっている、という議論をしていたと思いますが、ここもその一つの論点なのかもしれません。純粋資本主義論がふさいだ開口部を発掘する、といっても、私はけっこう慎重で、この収奪問題まで開口部に入れるかどうか、入れるとしてもどう抽象化していれたらよいのか、迷います。



第5-9パラグラフ。労働手段の節約とでもいうべき問題で、これが「労働の搾取度」とどうつながるのかは不明です。内容は、同じ量の労働でも、扱える労働手段、あるいは自然力の大きさを通常以上に膨らませることができるという話だと思います。採取産業、農業、本来の工業と順に検討して、第9パラグラフに「一般的な結論」が示されています。述べられているのは、価値レベルではなく、物量レベルでの「膨張力」です。

1.3.2. 労働の生産力



第10-13パラグラフ。


労働の生産力が上昇すれば、(相対的情価値の生産によって)剰余価値が増大し、蓄積が加速される、というのが基本線だと思います。ここでは、生産性の上昇は、実質賃金の上昇を許すが、それでも剰余価値率は上昇しうることも指摘されています。



生産力の増大は、既存の労働手段の陳腐化を促し、蓄積を加速するという話が続きます。最後の13パラグラフは、生産力の上昇=(後の規定を先取りすれば)資本構成の高度化論です。ここでは、イギリス人紡績工と中国人手紬工は、同じ時間には同じ価値を生みだす、と述べられています。v+m は同じだが、cが決定的に違う、ということです。19章の国債価値論とは違う説明です。

1.3.3. 使用される資本と消費される資本の差額の増大



第14-16パラグラフ。充用資本angewandte と消費資本(資本に関して「消費」konsumierte という用語を使うのはかなりマズいです。第3巻では「支出資本」とよばれていますが資本について「支出」というのもやはりマズいと思いますが)のギャップは、別のところでも指摘されいます。これは資本構成の問題ではなく、流動資本に対する固定資本の問題です。「固定資本」という用語は、第1巻にはでてきませんが、その規定内容は、すでに第1巻でも与えられているといってよいと思います。ここでは、充用され(消費されない)資本に関して、「自然力と同様な無償の役立ち」をする、と述べています。このあたり、さらに詰めて考えてみると、固定資本と自然力は別のものではない、ように思えます。



1.4. いわゆる労働元本



3つのパラグラフからなるこの節全体のネライは不明。第1パラグラフでは、資本の「弾力的な力能」elastische Potenzen がはじめに指摘されいます。ただし、この弾力性は、物量レベルのものです。これに対して、古典派は、社会的資本を固定した大きさとして扱う、と言い、ここから、ベンサムの「労働元本」批判に進んでいきます。ただ、生活手段の総量=「いわゆる労働元本」は所与だという主張に対する批判と、資本の弾力的力能の発見とがどう結びつくのか、いまひとつわかりません。



2. コメント

第21章から第21章への展開の基本テーマは何か、ふりかえってみると、資本の蓄積過程(=「資本主義的発展」P.Sweezyがこの用語で捉えた歴史的「過程」)の分析ではなく、資本の蓄積を通じて形成される、資本主義的イデオロギーの形成(「物象化」という用語は敬して遠ざけますが)です。第21章は蓄積がなされない単純再生産、これに対して第22章が拡大再生産に当たるのですが、そのための条件の考察はありません(第2節などで「予告」のみ)。労働に基づく所有という「イデオロギー」を維持したまま、深層は搾取に基づく所有に変化していること、この変化があっても、表層のイデオロギーは変わらないこと、が最大のモチーフだと思います。

第21章「単純再生産」のポイントは「階級関係」(資本[賃労働]関係)の再生産論、第22章のポイントは、所有法則の取得法則への転換による「社会主義」批判(プルードン批判)です。さらに第22章では、①スミスのドグマ批判(生産手段にウエートをおいた蓄積観の提示)から、価値レベルの拡大では捉えられない物量レベルでの拡大への注目(資本の「弾力的な力能」は、第23章での不連続で突発的な膨脹としての「資本主義的発展」につながります)、②「節欲説」や「労働元本」説への批判(マルクスの批判はこれが間違いだと正面から否定するのではなく、こうした言説がどのように発生するのか、その必然的根拠を解き明かすアプローチ=イデオロギー論によるものですが)が併行しています。

通常の経済理論という観点からいうと、第21-22章で論じられている内容はそこに収まりにくいものがあります。事実によって検証できるような命題でもありません。ただ、『資本論』を読んでいると、ここだけではなりませんが、このようなイデオロギー論が随所にでてきます。これを喜夫として、「経済原論」に仕立てなおすことは簡単ですが(私にはこれしかできませんでした)、『資本論』のおもしろいところを切り捨てることでもあります。私は一読者として、この部分を興味深く読んできたのですが、同時にまた、私の言葉で同じ内容を語ることはたいへん難しく観じてきてました。ただ「おもしろい」と観じているということは、その内容の理解だけではなく、私の考え方、論じ方のなかに強い影響を与えているはずで、いちいち「マルクスもいっているように….」という前振りなしに、私の言葉として自然に現れるはずだと、これはただ「信じている」だけですが、了解しております。

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