『資本論』第一巻を読む V:第5回

  • 日 時:2018年9月27日(木)19時-21時
  • 場 所:文京区民センター 2階 E会議室
  • テーマ:『資本論』第1巻 第23章第3-4節

第3週の木曜から第4週の木曜に変更しました。会場費500円です。ご自由にご参加ください。

第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」その2

 

今回は第3節のみで時間となりました。第4節は次回に回します。

1. 概要

1.1. 第3節「相対的過剰人口または産業予備軍の累進的生産」

この節も基本的に演繹的な推論による「理論」(原理論)です。大きくいって三つの内容で構成されています。
①資本構成の不断の高度化による相対的過剰人口の形成論(1-7paragaph 注82まで)
②産業予備軍の圧力による雇用労働者の労働時間の延長という相乗効果論(8-14paragaph 注84まで)
③「経済学者」の「見方」あるいは現象の「見え方」というイデオロギー論(「物象化」論というのかもしれませんが、私は「敬すといえども頼むことなし」の精神でこの用語は極力避けます)(15-17paragaph)
さらに①の一方的累積論に付随するかたちで
①’労働力の反発だけではなく、吸収・反発が併存するダイナミズム論や
①”拡張と収縮が交互に繰り返される周期的景気循環論
が登場します。

1.1.1. ■ 不断の高度化

第2パラグラフの後半にでてくる「総資本の増大につれて加速され、しかも総資本自身の増大よりもいっそう急速に加速される可変的構成部分の相対減少」という認識がこの節のコアとなります。v = (v/(c+v))×(c+v)ですが、資本構成 c/v できまる第1項の低下が、資本規模を表す第2項の増大をつねに上まわる、という命題です。基本は、累積的な abermalig 加速的増大とか加速的減少とかいう、この加速的 beschleunigter という捉え方です。たとえば、蓄積によって資本規模(c+v)が10パーセント増えると、資本構成c/vと同じ動きをするv/(c+v)のほうは20パーセント下がるという関係で、vは-20+10≒-10パーセントつまり約1割減少する、AはふえるけどBはその増えた以上に減少する、ギャップがどんどん増えてゆく、というわけです。最後のあたりにでてくる「労働者人口の絶対的増大のように見える」の「見える」 scheint(scheinen) は、同じ変化が異なるかたちで語られるという物象化論の伏線です。

第3パラグラフは、吸収と反発がダイナミックに進む過程を描いています。資本主義的生産の覆う部面が産業予備軍というバッファを通じて自在に拡大する過程が指摘されています。そしてこのパラグラフの最後で、これが「資本主義的生産様式に固有な人口法則」だと結論されています。

コメント:
「資本主義的人口法則」の理解に関して、第2,第3の二つのパラグラフの関係をどう捉えるかが問題になります。私はかつて、第3パラグラフを独立させて読み、第3パラグラフの吸収・反発の同時並行性こそが実は「人口法則」だと主張したことがあります。宇野弘蔵が第2パラグラフの「不断の高度化」論を否定していたことに影響をうけた読み方でした。こういう読み方をしながら、産業予備軍のバッファとしての機能を理論化する方法をいろいろ探ってきました。こうして得られた結論はいまも正しいと思っていますが、ただ『資本論』の「人口法則」の「解釈」としては誤りだと反省しています。第3パラグラフは第2パラグラフを補足するもので、『資本論』の「人口法則」は、吸収反発をともないながらも(第3パラグラフ)進む、相対的過剰人口の不断の累積(第2パラグラフ)である、と今回は読みたいと思います。ちなみに宇野弘蔵は —『資本論』の「人口法則」規定が誤りだとはっきり「批判」した箇所はみつかりませんでしたが(たぶん探せばあるとおもいます — 資本主義的に直接生産することのできない労働力商品が、好況を通じて吸収され恐慌を通じて(or不況末の「資本構成高度化の蓄積」によって)反発されるかたちで間接的に生産される周期的な吸収反発こそ、資本主義に固有な「人口法則」である、というように、相対的過剰人口の累積論(第2パラグラフ)とまったく異なる内容の人口法則を展開しています。この宇野の命題の真偽は、『資本論』の解釈を離れた原理論の議論になりますが、私は宇野のこの周期説には難点があると考えています。今度は宇野解釈と宇野批判になりますが、『資本論』でこの後にでてくるテキストを「誤って解釈」し、その内容を「真だと判定」して — ゴチャゴチャしてますが要するに—、需給論的な賃金変動論で人口法則論を基礎づけた点です。詳しくは30分後に….

第4パラグラフも基本的には、産業予備軍が資本主義的発展のダイナミズムを支えるプラスの効果が指摘されています。「無用の用」というのがありますが、私はこれに近い効果だと理解しています。表題をのぞけば「産業予備軍」industrielle Reservearmee という用語が本文中に最初に登場します。

コメント:
相対的過剰人口と産業予備軍の関係は? このテーマで解釈論がかつて盛んにおこなわれました。『資本論』自身、こういう新しい用語をだしても「定義」からははいりません。教科書や辞書ではないので、こういうものでよいのでしょう。読み手が文脈に沿ってイメージを膨らませてゆけばよいので、そうした自由な読み方に対して、いやマルクスは本当はこういう意味で言っているのだ、とマルクスの真意論を振りかざすのは無粋だと思います。もちろん、これは読み手がそこから積極的に何かを読みとろうとしている場合の話です。世の中には、はじめから『資本論』の誤りをあげつらう目的で読む人も多く、明らかな誤読をする人がいます。そういう人に「そんなことは書いてないでしょう」というのはアリでしょうが、その延長線上にマルクスが自ら回避している「産業予備軍」の定義めいた内容を一義的にきめて、「こうも読める」「こう読む」という読み手の自由をしばってしまうことに私はなかなか与することができません。私自身は、「こう読む」という「解釈」を明確にして、その内容が真が偽か「批判」する、という、ある意味ではちっともポストモダンでない、伝統的な古典への接し方をずっと維持してきました。ということで、「産業予備軍」をどう「読む」かですが…

「産業予備軍」という用語は、文字通り軍隊の「予備軍」がヒントになります。この節は資本主義的生産の拡大を戦争・戦役になぞらえるところがあります。単調に成長するのではなく、山あり谷あり、もうかるとなると一気に集中して征服してしまう、そうしたダイナミズムです。こうしたことをするには、ただ巨大な常備軍を維持するだけではだめで、いざ戦争となったとき、予備役が大量に動員できる状態になくてはならない、ということなのだろうと私は読んできました。だから、予備軍というネーミングには、単なる失業者というマイナスのイメージだけでなく、雇用に弾力性を与える「無用の用」というプラスのイメージを読みとります。このあたりが、貧困の累積というマイナスのイメージがつきまとう「相対的過剰人口」との違いかな、と思うのですが、『資本論』のテキストについていうと、こうした使い分けがなされているわけではありません。これはあくまでも全体としての印象です。問題はここから先です。このプラスのイメージを、自分でもう少し理論的に考えてみると、労働市場に欠かせない「バッファ」の機能、ここから一般化すれば、一般の商品市場で何でも買える貨幣と同時に必ず存在しなければならない商品「在庫」の一種だと、という結論になります。これはマルクスがこう言っているという意味ではなく、マルクスの「産業予備軍」を批判的に理論化した私の結論です。

さらにこのパラグラフの最後のところで10年周期の景気循環の存在が指摘されています。宇野弘蔵たちが注目した点です。この周期的循環が『資本論』では理論的に「論証」できていないという批判からはじまって、宇野弘蔵の一連の恐慌論関係の研究が進められていったのですが、『資本論』のテキストに即していえば、これは第2パラグラフの累積論の補足の補足で、『資本論』では正面から論証するべき課題とされてはいません。

第5パラグラフは歴史的な視点から、近代産業はみずから過剰人口をつくりだすことで「自立」した、というのが趣旨です。さいごにまた、景気循環に論及しています。ここだけ抜粋すると、周期的景気循環が資本主義の自立性の証だ、というようにも読めます。

第6パラグラフは、以上の過程を「経済学者」がどう「語る」のか、というイデオロギー論です。第7パラグラフはここまでの「まとめ」です。

1.1.2. ■ 就業労働者と産業予備軍の相互作用

第8-10パラグラフでまず、就業労働者数 N と一人あたりの労働時間 l で総労働時間 T = l × N がきまること、つまり一定のNから引き出せる労働量 T は弾力性をもつことが指摘されます。第10パラグラフがまとめです。

第9パラグラフでは、この弾力性が産業予備軍の圧力で強化され、逆にそれがまた雇用を圧迫し、産業予備軍の増加を招く、という結論が導かれています。こうした圧力がなければ、実は現存の労働人口でも足りないのだ、と最後に述べられています。

第10パラグラフは周期的な景気循環の過程で産業予備軍の吸収反発が進むことが指摘され、これを労賃変動による労働者人口の増減として理論化した古典派「経済学のドグマ」が批判されます。ここは周期的景気循環と雇用量の問題がいちばん明示的に論じられている箇所です。ただ、『資本論』のテキストでは、ここで賃金上昇を説いている訳ではない点は注意する必要があります。労働力の枯渇から賃金上昇を説くのは古典派で、『資本論』は産業予備軍がバッファになって変動を吸収します。ここから先は私の考えですが、産業予備軍が枯渇しないかぎり需要が労働需要が増大しても賃金率は変わらないというのが正解です。たぶん、好況期の労働力吸収→賃金上昇→利潤率低下を読む宇野弘蔵と、『資本論』に異なる解釈を与えちょっと違う理論的立場にたっています。

コメント(読書会後の):
昨日の読書会で、このパラグラフについて議論してみました。宇野弘蔵の恐慌論、あるいは宇野弘蔵をもちださなくても、どこかで景気循環論を学んだことがある人は、たいてい、好況期に賃金が上昇する、賃金が上昇するから好況なのだ、とか自然に思っているようです。そういうつもりで、このパラグラフも読むとなんだかヘンなことになりませんか…. と切り出したのですが、みなさん、????という顔をしていたので、もういちど説明してみます。

このパラグラフは、当日も全文読み下して解説してみました。読書会のメンバーはみな、ここを景気循環の過程で賃金が上昇下落する過程を論じたものだと読んでいたようです。実はこのような読み方は「マルクス経済学者」のあいだでも「標準」ですから、当然かもしれません。しかし、これは「解釈」の次元で誤りだと思います。冒頭の一文をどう読むかで解釈は分かれます。

一般に、労賃の一般的運動は、産業循環の周期的変動に照応する産業予備軍の膨脹と収縮とによってもっぱらausschließlich 調節 regulieren される。

「労賃の一般的運動」というのだから、上昇下落の運動だろう、と読んでしまいがちですがテキスト的には根拠がありません。ウソだとおおもいなら、賃金の上昇・下落を指示する文言がテキストのどこにあるか、探してみてください。賃金の変動がでてくるのは「経済学のドグマにしたがうかぎり…」という留保のもとでなのに気づくはずです。そして、これは誤った説として否定されています。そのまえの正しいと考える自説を述べた部分では、労働に対する需給の変動は「現役軍と予備軍とに分解する比率」で「規制される」と書かれています。要するに、産業予備軍がバッファになって、需要供給の変動はそこに吸収されるのです。しかも「もっぱら」です。基本的には産業予備軍の増減で吸収されるが、一部は賃金の変動も引きおこす、というのでは ausschließlich exclusively になりません。需要が増えたからといって賃金は上昇することは絶対に「ない」のです。

引用した冒頭の一文における「労賃の一般的運動」は「変動しない」という「運動」です。「運動」という用語にひっぱられてしまいますが、後を読めば上昇・下落の運動だとはどこにも書いてありません。上昇・下落の運動と考えてしまうのは「経済学のドグマ」のほうです。逆に産業予備軍が枯渇してしまえば、この「調整」作用ははたらかなくなり、理論上は、賃金は不連続に上昇する、という結論になります。

よく見かける読み方は、この「産業予備軍」のプラスの効果を無視することによるものです。すなわち、産業予備軍が減少すれば、賃金は少しずつ上昇する、と — テキストには書いていない「常識」をつけ加えて — 読むのです。「だって、需要が増大すれば価格が上がるのは当たりまえだ」と多くの人がいうのですが「それはあなたの常識です」と私は答えます。通常はこの常識を前提に、「資本の蓄積が進めば賃金は上昇する」という命題を真とします。だから古典派の「経済学のドグマ」は賃金の需給決定論にはないと読み、ドグマはその後にある、つまり、「賃金が上がれば人口が増える、逆なら逆」という命題が偽だ、と読むようです。たぶんまだ、そのどこがおかしいのか、わからないという人が多いと思います。ここには、ちょっとした論理的トリックが潜んでいるのです。「ドグマ = 誤り① + 誤り②」となっているとき、誤り②を指摘して誤り①をパスさせるトリックです。(A)ドグマは誤っている (B) 誤っているのは②である。(C) だから①は問題ない。….「要するにドグマの誤りがいえればいいのだから…」という気持ちはテキストの読みを甘くします。あとはいくらいっても、解釈論特有の水掛け論になりますが、少なくとも、私のようにこの一文を、「産業予備軍がバッファとして調整作用をはたすので、基本的に需要供給で賃金は変動失いのだ」と読む自由は認めてもらえると思います。

『資本論』はもちろん、「労働市場は産業予備軍=商品在庫というバッファをもつため需給関係で賃金は変動しない」という命題をポジティブに提示しているわけではありません。この命題は、私の「解釈」です。そして、この解釈した内容の真偽を吟味したうえで、私は真だと判断しました。むろん、この論証は私の立場でおこなう必要があります。『資本論』をよく読めば、実はこう書いてあるから、真であるということには絶対になりません。この論証は、ここではいたしません。ちょっと長くなりますが『労働市場と景気循環』はこの論証にあてた書です。

それで、論証全体はともかく、せっかくですから、産業予備軍のバッファー効果を読みとることが、理論的にどんな展望を与えたのか、だけ報告しておきます。景気循環論で好況期の労賃騰貴・資本過剰型の恐慌を考える立場の人たちからみると、おそらく、バッファー効果をいってみても、けっきょく、好況末にバッファが破壊されて恐慌になるという大筋は変わらない、マイナーな話だ、というでしょう。景気循環論がもっぱら好況末に焦点を絞り恐慌の発生を説明することに集中してきたため、恐慌の発現論が大枠で同じなら、たいした話ではないように見えるのだと思います。

問題は景気循環の全体に目を向けたときに浮上します。最近では「不況論」もいろいろ模索されるようになりましたが、こっちの理論には未解決の問題が多いのです。賃金率の決定を需給論から切り離すことは、不況論を「理論」として確立するルートを開きます。好況と同じ資格で不況の[理論」を定立することを可能にします。景気循環には好況という相と同格で不況という相がある、という結論もでてくるわけです。これから先は長くなりますが、好況、恐慌、不況と時系列で、半分歴史・半分理論、歴史的過程を理論の言葉で記述するだけだった景気循環論を原理論として再構築することができます。年のせいか、話が長くなりますが、あとは上の本にて….

第11パラグラフは第10パラグラフの補足です。農業部門での特殊要因(たとえばクリミア戦争)で部分的に生じた賃金上昇が全般的賃金上昇と勘違され、しかもこの上昇は農業の機械化で解消されたことが指摘されています。

1.1.3. ■ イデオロギー問題

最後は人口法則をめぐるイデオロギー論です。すでに第10パラグラフででていた「経済学のドグマ」「経済学の作り話」に関する議論が展開されています。

とくに最後のパラグラフでは「サイコロはいかさまだ」Die Würfel sind gefälscht の議論はよく知られています。資本による労働力の需要、労働者による労働力の供給、この二つを独立の要因とみて、市場で均衡価格(これはマルクスは使いませんが)が成立する、という需給均衡論はいかさまだ、というのです。なぜか?就業労働者と産業予備軍に相互牽制の圧力がすでに作用しており、「失業者の圧迫が就業者により多くの労働を流動させるよう強制し、したがってある程度、労働供給を労働者供給から独立させる」からだ、というのです(実はこの引用のまえにもう一つ書いてあることがあり、それが本命だ、と読む人もいるでしょう。解釈としてはそっちが正解かもしれません。これを省いたのは私が自分の考えにひっぱられているかです。正直にいえば… 「読む」という行為はこうしたことを知らず知らずやっていることが多いのです)。このあと「労働組合」に言及しています。「就業者と失業者とのあいだの計画的協力を組織する」というのですが、これは就業者だけで構成されるいわゆる「労働組合」ではなくて、当時のイギリスでみられたオーウェン型の「共同組合」ですね。協同組合運動で失業問題を克服しよう、すべきだ、という銀論に進まない、この『資本論』の書き方、もっぱらイデオロギーがどうして現実をカモフラージュするのか、そのわけを暴くことに話をもってゆくところが、おもしろいところです。

1.2. 第4節「相対的過剰人口のさまぎまな実存形態。資本主義的蓄積の一般的法則」

前半は相対的過剰人口の3カテゴリー論、後半は窮乏化法則論です。これまでところが抽象的な推論が基本なので、わかったようなわからないような、と感じた人も、この分類論になるとホッとするようです。それまで無口だった人が、ここらになると途端に饒舌になるのをみたことがありますが、逆に理論指向の人にはちょっと退屈な分類論かもしれません。この時代なら項だったのだろうということ、実証的指向の強い人は、今と比較してこのカテゴリーはどうだろう、という話になります。後半部分は、『資本論』のなかではかなりホットな語り口になっている気がします。”資本主義っていうのは実はこうなんだ”という「なんだ」という気合いが感じられます。読み手にも「そうだ」と呼応しやすいテキストなのではないでしょうか。

1.2.1. ■ 相対的過剰人口の4つの範疇

1.2.1.1. 流動的形態

近代的産業で吸収・反発される過程で生じる失業者、というのが定義になるのでしょうか。具体的に書かれているのは、若年労働者に雇用がシフトしており、成人労働者があぶれる話です。

1.2.1.2. 潜在的形態

農業部門における相対的過剰人口で、こちらは吸収力が弱いから、流動ではなく、近代産業に吸収されるべく、農村に潜在する過剰人口、ということでしょう。

1.2.1.3. 停滞的形態

こちらは農業部門ではなく、都市の非近代的な産業で雇用されている雑業層でしょうか。ここでは「家族の絶対的大ききも、労賃の高さに、すなわち労働者のさまざまな部類が使用できる生活諸手段の総量に、反比例する」といわれています。

1.2.1.4. 沈殿物

「受救貧民の必然性は相対的過剰人口の必然性のうちに含まれている」といいます。「産業予備軍の死重」 tote Gewicht というのは、産業予備軍を乗せておく船があるとすると、その船が沈殿物=受救貧民(労働能力のない傷病者など)で、不可避的に必要になるいう意味でしょうか。ここはだいたい「相対的過剰人口」=マイナスのイメージで書かれていますが、「産業予備軍」というときは「無用の用」的なプラスのイメージがあり、「相対的過剰人口の死重」ではなく「産業予備軍の死重」という語法になるのでしょうか。つまらないことですが….

このカテゴリー論は、理論的にこの4つに分かれるという議論にはなっていません。これはいままでの演繹性の強いテキストからみると落差があると思います。理論的必然性が問えない、現象記述になっています。だからいけないという意味ではないのですが、『資本論』というテキストを「読む」ときには、こうした切替が明示されないかたちで、密かになされていることには充分注意する必要があると思います。

1.2.2. ■ 資本主義的蓄積の一般法則

①労働の生産力が大きくなればなるほど、それだけ産業予備軍が大きくなる。②産業予備軍が大きくなればなるほど、公認の受救貧民がそれだけ大きくなる。②をどこまで強く読むべきかはわかりませんが、と産業予備軍とが大きくなればなるほど、公認の受救貧民がそれだけ大きくなる。「これこそが資本主義的蓄積の絶対的・一般的な法則である」。Dies ist das absolute, allgemeine Gesetz der kapitalistischen Akkumulation. とイタリックで強調してあり、熱が入っているな、と感じた部分です。

前節末のところでコメントしたように、産業予備軍の累積は「労働組合」「協同組合」で阻止改善できる事態ではなく、「法則」だというのです。「労働者たちに向かって、彼らの数を資本の増殖欲求に適合させよと説教する経済学的知恵の愚かしきが、よくわかる」というわけです。

コアとのパラグラフ(第10パラグラフ)はかなり高いトーンで「法則」だということを強調します。「れゆえ資本が蓄積されるのにつれて、労働者の報酬がどうであろうと — 高かろうと低かろうと— 労働者の状態は悪化せざるをえないということになる。最後に、相対的過剰人口または産業予備軍を替和の範囲と活力とに絶えず均衡させる法則は、へフアイストスの楔がフロメテウスを岩に縛りつけたよりもいっそう固く、労働者を資本に縛りつける。この法則は、資本の蓄積に照応する貧困の蓄積を条件づける。したがって、一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である。」
「ではないか。」とか「ではあるまいか」とか「といえよう」とか… 日本のマルクス経済学者の情けない常套句はいっさいでてきません。「である」の連続です。真偽はともかく、『資本論』としては明解な結論です。これが「窮乏化法則」といわれてきた内容です。

一点理論上の問題として注意しておきますが、「労働者の報酬がどうであろうと — 高かろうと低かろうと— 労働者の状態は悪化せざるをえない」というのが窮乏化法則です。賃金率がどんどん低下する、一日はたらいても一日の生活費が稼げない、というワーキングプアーの現象さして、マルクスがそれを窮乏化法則として資本主義に必然的なものといっているというのは、解釈としては誤りになります。失業者が増えると賃金がさがって貧乏になると考える人は、どこかで需給論的な賃金決定論を認めているのですが、『資本論』のテキストは基本的に賃金が需給で決まるという「経済学」の対極に位置しています。「貧困」は低賃金ではなく、失業です。窮乏化の基本は、賃金が上がっても、資本ぬきの生き方が考えられない、という隷属状態にあるのです。

最後に、資本主義的蓄積の敵対的性格は、「経済学者たち」によってどのように語られているかが紹介されています。現象が立場によって「必然的に」異なってみえるというイデオロギー論の再論です。

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