アナーキーでラディカルな

高校の卒業50周年記念で文集を編む由、亡友に手紙をだしてみました。今回も彼の親切な忠告にしたがい、2文ほど削除して活字にします。


S君、その後どうしているだろうか?君から城北会に誘われたのはちょっと意外だったが、その城北会から同期50周年文集への依頼がきた。ちょっと迷ったが君とのよしみで、なにか書くことにした。

君と知りあった1960年代末、「この社会はどう変わるのか」という「歴史」問題を共有しながら、時代の熱い風に吹かれ、君はフランス政治史、僕はマルクス経済学の理論を志すようになった。君にはもう何度も話したが、時代が「変わる」というのは「全体」が変わるのであり、部分の変化とは次元が違う。ただこの「全体」を捉えるというのは厄介だ。たとえば宇宙全体を外から眺めることはできない。外にはでられない「全体」を内部から捉えるには、抽象的な演繹体系が不可欠となる。未来から見返すことのできない「社会」も同じで、その内部構造を演繹的に組み立てる以外捉えられない。まだうまく言語化できなかった僕の主張に君は首をかしげていたが、これが直観だった。

僕らが学部から大学院に在籍した70年代、大学は建物も秩序も見事に破壊されていた。そんななかで「キライなもの、権威、権力、賞に式」とうそぶくアナーキーな僕に、「ラディカルのほんとの意味はすべてに批判的であることなんだよ」と教えてくれたのは君だった。その一言がハチャメチャだった僕に「すべてが疑わしいのだ、なにが継承と発展だ、ゼロからつくりなおせばよいのだ」という方法論を与えてくれた。後年、「マルクス経済学は少数派になった」とか「君には理解者が何人いるのか」などとお節介をやく人に、逆に「なぜそんな頭数ばかり、気にするのか」と平然としていられたのも、このころ染みついたアナーキーでラディカルな精神のせいだろう。「群れをつくってトップを競う、そんなメダカみたいな生き方のどこがおもしろいのだ」といいたい気持ちはわかるけど、「それが顔にでると人間関係を壊すよ」と、おとなの君は親切に杖まで貸してくれた。おかげで今日までなんとか転ばずにこれた。でも理論はやっぱり自分の頭で考えるもの、人は一人ひとり一つの頭をもっているのだ。

やがて大学に職を得て研究生活にはいったのだが、「変わる」の主語になりうる資本主義の理論に目星がつくまで、かれこれ30年、費やしてしまった。例のちょっと変わった『経済原論』の教科書がそれだ。この間、僕らが大学に期待したラディカルでアナーキーなアカデミズムは加速度的に凍結し、正直、経済学部はあまり居心地のよいところではなくなっていった。ミクロ経済学+マクロ経済学がグローバル・スタンダードだというアメリカ仕込みの権威主義、画一化に抗して、資本主義の変容を説明する「もう一つの経済理論」がりっぱに成り立つことを学問として示す必要があった。ただコチコチの凍土でも丁寧に耕して種を播けばかならず芽はでるもの、僕からみると毎年若返ってゆく学生諸君に向きあい、ゼロベースでわかる話をしようとするとつねに新たな発見があった。おかげで最終講義を「マルクス経済学を組み立てる」というタイトルでおえたとき、理論は自得に至っていた。

君と考えようと約束した「この社会はどう変わるのか」という問題の主語はきまった。そろそろ述語のほうに取りかかるときだろう。これに関して実は、君が余計な回り道だと忠告してくれた理論の世界をさまよっているうちに、少しわかってきたこともある。君も知ってのとおり、『資本論』は日本についてほんの一言二言ふれるのみ、日本の資本主義化など想定外のことだった。ところがその初版刊行から50年あまり後、『資本論』は戦前の日本のアカデミズムに急速に浸透した。しかも、日本のマルクス経済学者たちは、知らず知らずに、マルクスが望んだ「読まれ方」とは違う「読み方」を見つけだし、新しい資本主義の歴史像を描きだしつつあった。

『資本論』の歴史像が、亡命者マルクスの目撃した19世紀中頃の英国資本主義がもっとも資本主義らしい資本主義であり、しかも、その内部で階級対立が激化し、発展故に自壊する、というものだったとすれば、日本のマルクス経済学者のなかにこれを倒立させるものが現れた。19世紀の英国資本主義は「市場」の原理で自立的発展をとげていたが、19世紀末に「国家」依存型の後発型資本主義 — もちろんここに日本が含まれる — が台頭するに及んで、資本主義「国家」間の対立、帝国主義戦争が必然化する。資本主義はここにいたって、発展期から没落期に突入したというのだ。

僕が大学で最初に接したのは、この新種の国産マルクス経済学だった。20世紀前半の帝国主義戦争の時代も、そして後半の冷戦構造の時代も、これであらかた腑に落ちた。『資本論』を根底から批判し、自立的な資本主義像に再構築することがこの理論の基礎だったので、当初僕はこの作業に没頭した。ところがそのうち、自分がどこか不思議な世界をさまよっているような妙な気分に襲われるようになった。この枠組みではどうもうまく説明できない現実が目の前に広がっていたのだ。NICs とかNIEs とかよばれた新たな資本主義の台頭である。没落期だった資本主義に、新たな資本主義が誕生する、これはどうみても無理だ。今度は、自分が拠り所としてきた戦後日本のマルクス経済学を根底から批判する必要に迫られた。この第二の批判が例の教科書を仕上げるのに30年もかかったホントの理由だ。

去年僕は台湾を旅行した。NICsの代表格だった台湾の資本主義化と、そして民主化に強い興味があったからだ。2014年のひまわり学生運動は、忘れかけていたラディカルでアナーキーな世界を彷彿させる。僕らが50年前、プラハの春の圧殺に抗議したあの連邦共和国は、ハイゲート墓地の草むらにひっそりと埋もれていたマルクスの墓をグロテスクな頭像に造り替えた。ひまわり運動が立ち向かったのは、生誕200年記念の巨大な立像を遙か遠いマルクスの出生の地トリアの街に建てたあの人民共和国、その双子の兄弟である国民党の権威主義だった。権威主義者は、銅像を建てたり、国旗を振ったり、祝賀パレードをしたりするのがすきでやめられないようだ。最近僕はよく、自分が日本のマルクス経済学批判からつかみ取った資本主義の歴史について、香港の雨傘運動や台湾のひまわり運動の学生たちと語りあうすがたを夢想する。その機会がきたら君にも声をかける。お楽しみはこれからだ。返事をまつ。

「アナーキーでラディカルな」への2件のフィードバック

  1. 久しぶりに君のアクの強い文章を読んだ。見開き2ページで50年、飛躍の多い「点描画」で、たぶん、その後の君を知らない高校時代の級友には「?」という点が散らばった「点画」に映るだろう。「そうみえるのは一つことに絞って前後左右から克明に描く歴史家の目でみるからさ」と君はいうだろう。たしかに歴史家は史実を一つ一つ並べて隙間のないタイル画を描こうとするものだ。今回も君は「似てると同じは違うのだ」という例の論理で、僕のすがたを創作している。君のように意図的でなくても、だいたい史料は虚実入り乱れたもの、歴史家はそこからできるかぎり客観的な「実」を抽出し史実を描く。歴史家自らが「虚」を交えることはまずもって避けねばならない。理論家の君が論理を踏み外すことを何より忌むように。

    それはともかく、君がひまわり学生運動に関心をもっているのをしってちょっとおどろいた。実は僕も「女朋友。男朋友」という映画をたみたのがきっかけで、1990年の「野百合学生運動」に興味を覚えた。「港町ブルース」のメロディーで「苦海女神龍」が流れる集会帰りのシーンで、なぜかその昔、君とデモの後にオールナイトでみた日活映画を思い出し、それが妙に印象に焼きついた。それはどうでもいいけれど、台湾大学の正門からはいって300メートルくらいいった左手に、たしか校史館があり、その二階左奥に、台湾大学の学生運動の資料が展示されている。一度見にゆくといい。

    11月24日の九合一選舉の結果は残念だった。あの高雄でも市長選に敗れてしまった。台北市は5000票あまりの僅差で柯Pが再選されたようだが。投票日の1週間ほどまえに、例の金馬賞の授賞式があり、そのドキュメンタリー部門でひまわり運動を描いた監督が受賞、これに大陸からの俳優監督が一斉に反発して引き上げたというニュースをみた。ほかにもいろいろな圧力がかかっていたのだろう。このあたりの話はいずれまた。

  2. 台湾大学の校史館には僕もいってきた。椰子だろうか、高木の並木が図書館に向かって続く広々とした道に沿って趣のある建物が佇んでいた。青空がみわたせる開放的で気持ちのよいキャンパスだった。

    高雄の市長選、たしかに残念だった。当選した韓国瑜氏は選挙中、旗津にカジノを開いて「対岸」から観光客を呼び込んでみせると息巻いていた。高雄港の向かいに小高い丘と砂州が広がっている。旗津の老街はこの砂州に古いお宮を中心にひろがっていて艀で渡れる。「最好的時光」という映画の第一話はこの旗津のとある撞球場からはじまる。1960年代の話だろう、ゆっくりとした時間が流れ「当兵」(徴兵)の知らせをうけた青年が、ここに住み込で客の世話をする「小姐」と、台北に向かう最後の晩にビリアードに興じる、そのバックに文夏の「恋歌」がラジオから流れてくる。これは「江差恋しや」だ。君はこの手の歌は知らないだろうが、子供のころからずっと歌謡曲ばかりきいて育った僕には、北の江差と南の高尾が、「抽象的に」とはいわぬが、内的に奇妙に呼応する。こうなるといわずもがな、港に別れはつきもの、この青年が休暇で再び尋ねるが彼女はすでにいない。そのゆくえを追って、おそらくバスで北に向かうバックに、これも文夏の「星星知我心」(伍佰の星兒是全部會知影…もよいが)、まさに60年代だ。

    高雄をゆったりと流れる愛河の河口は民進党市政のもとですでにかなり再開発が進んでいるが、それでも夕暮れ時川沿いを散歩すると、まだ長閑な雰囲気が残っている。韓国瑜氏はここにも巨大な観覧車を建てれば Love Liver の名につられて「対岸」から若いカップルが観光に押し寄せるといっていた。選挙ラリーでは軍歌「夜襲」を大合唱して景気をつけながら、台湾に対して「両岸」は「一家」だという。国民党が共産党と双子だといったのはこの大国主義だ。愛河のほとりに歴史博物館がある。日本の植民地支配を物語る建物だが、その2階には今度は国民党が台湾人を圧殺した2・28事件のときのジオラマがある。あるいは君ももういったのだろうか。

    高雄の60年代は「風櫃来的人」でも味わえる。強風吹きすさぶ澎湖島のそのまた外れの村から、高雄ではたらく姉さんを頼りにでてきた少年たちが住み着いたのも旗津だった。姉さんについて鼓山の渡船場から艀で旗津に渡るシーンは当時の街の面影を伝える。休日に高雄の街でスクータに乗ったおっさんにまんまとだまされ、総天然色の映画が見られると偽の切符をつかまされて、できかけのビルに最上階に登るシーンで、切符を破り捨てたあと、「たしかに天然色のパノラマだぜ」と笑う少年たちの眼下に流れていたのが愛河だ。

    少年たちがはたらいていたのは電子部品工場のようなところで、台湾の資本主義的発展のほんの一コマかもしれないが、僕には印象に残っている。けっしてこれを根拠にいうわけではないが、東アジアの資本主義化は60-70年代から内発的に進んでおり、こうしたかたちで世界各地に生じていた資本主義的発展が89-90年代におけるグローバリズムの底流だというのが僕の基本的な見方だ。ところがこれをいうと次々に統計表や「史料」を突きつけられ、そんなことはない、基本的には合衆国を中心にした直接・間接の先進国資金が主導したのだと猛反発される。現実は複雑で僕もこうした人たちの指摘する面がないとは思わないが、僕のような見方も不可能ではないだろうと高をくくっていると、もっと踏みこんでくる実証史家もいる。何が何でもグローバリズムはアメリカナイゼーションだとがんばる人たちだ。こうした人たちに、僕は60年代のえらくイデオロギー的だったあの「対米従属論」の面影をみいだしながら、同時にまた同じ時代の空気のなかで、僕も実は反対方向のイデオロギーに引きずられているのではないかとちょっと不安になる。

    「歴史家は史実を一つ一つ並べて隙間のないタイル画を描こうとするものだ」と君はいうが、僕はこの出発点が君よりずっと緩いのだろう。出発点になる見方は複数ありうるという立場だ。僕の興味は、歴史はどのような原理で展開してきたことになるのか、にある。ある一つの(実証史家には唯一なのかもしれないが)歴史的社会の捉え方にたてば、世界の変化がどう説明できるのかが問題なのだ。僕は、どう変わるのか、そうはならないのか、という「推論」にこそ真偽が問えるのではないかと思う。ところが実証史家はこの話なると、「それはいろいろありうる、客観的史実にイデオロギーを投影した歴史理論はもう懲り懲りだ」とそっぽを向いてしまう。拒絶の決まり文句は「古くさい唯物史観」で、僕はそんなものにこだわっていないといくらいっても語ることを拒む。

    歴史的事実と理論的変容、これは君と昔から話してきたテーマだ。僕は長い間、史実は一つとして変化の[理論」を拒む近代実証史家と、正しい経済理論は一つしかないという主流派経済学者の両方に抗してきた。後のほうも厄介な相手だった。僕は理論というのは所詮ある捉え方を前提に組み立てられるもので、その意味では複数理論説だ。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学のようなもので、違う想定のうえにたつ理論の間でどっちが正しいか、争っても無駄だ。ただユークリッド幾何学的に誤っていたり、非ユークリッド幾何学的に正しかったりするのだと考えて生きてきた。ただ「歴史家」の君がいぶかるとおり、理論内部の真偽だって考えるとかなり怪しい。「油絵と浮世絵とどっちが優れているかなんて意味がない、僕は最後の浮世絵師になる覚悟だ」というようなことを、以前君に話した。マルクス経済学を浮世絵になぞらえていたあのころは、まだ理論的真偽の絶対性を盲信して自縄自縛の陥り、当人はけっこう追い詰められた気がしていたのだ。君に「浮世絵が廃れたって浮世絵師が落命するわけもあるまい、もっと自由に生きるのが君のモットーじゃなかったの?」と笑われたのを懐かしく思いだす。

    台湾は面積が九州ほど、人口も2500万人あまり、ちょうどよいサイズだろう。こうした規模の社会が世界中に広がり、それぞれ自立してユニークなカルチャーをつくりだしてゆくというのが、夢想家の僕が100歩ゆずって妥協できるアナーキーでラディカルな現実の世界だ。群れをつくってトップを競い、空虚な多が個を圧する、そんな世界はまっぴらごめんだ。台湾のことばはおもしろい、どんどんいろいろなスラングが生みだされてくる。ことばはだれのものでもない、こうした自由なことばの世界が生き生きと営まれるにはあまり少ない人口ではだめで、2000万くらいがちょうどいいくらいかなと思う。

    さてさて、このあたり、話せばまた長くなる。多忙だろうが気長に返事をまつ。

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