『資本論』第一巻を読む V:第9回

  • 日 時:2019年 1月24日(第4木曜日)19時-21時
  • 場 所:文京区民センター 2階 E会議室
  • テーマ:『資本論』第1巻 第24章第7節
第24章「いわゆる本源的蓄積」その3

第24章を、そしてある意味では、『資本論』第1部を締めくくる第7節を詳しく読んでみます。

資本主義の起源を単に労働力の商品化に求めるのとは違うlogicが潜んでいることを前回の終わりにちょっと話してみました。今回はこの問題について議論してみましょう。

資本主義的蓄積の歴史的傾向

二つの経路

資本の本源的蓄積、すなわち資本の歴史的な創生記とは、結局どういうことなのか?それは①奴隷および農奴の賃労働者への直接的転化、したがって単なる形態変換でない限り、②直接的生産者の収奪、すなわち自分の労働にもとづく私的所有の解消を意味するにすぎない。

このパラグラフを①と②に分けて、資本主義が成立する二つの経路を示していると読むのは、純粋な解釈としては無理です。この節の基本はあくまで②です。①についてはこの後論じられることはありません。

農奴とよぶかどうかはともかく、封建制のもとで領主に支配されていた(したがって生産手段である土地も「所有」しない)農民がプロレタリアートになったという①の経路ではないようです。一度、農奴から解放されて、自営農民になった(農奴からの解放がイングランドではかなり早い時期にすんでいたという事実ははこの章の前半でたしかに指摘されているのですが….)点が強調され、自営農民が没落してプロレタリアートになったという②の経路が強調されています。

しかし、これまでの展開を通じてみると、はたして②のラインが基本だといえるか、これは疑問です。第23章で②の存在が説明されていたか、ふりかえってみると「直接的生産者」の登場はちょっと唐突で不自然です。①はこの後でてこないのですが、いちおう①と②を対比的に捉えると、次のようになります。

  1. 奴隷・農奴 → 賃労働者
  2. 奴隷・農奴 → 直接的生産者=小経営 → 賃労働者

私的所有の両極

社会的・集団的所有 gesellschaftlichen, kollektiven Eigentum の対立物としての私的所有 Privateigentum は、労働手段と労働の外的諸条件とが私人に属する場合にのみ存立する。しかし、この私人が労働者であるか非労働者であるかに応じて、私的所有もまた異なる性格をもう。一見したところ私的所有が示している無限にさまざまな色合いは、極端のあいだに横たわる種々の中間状態を反映しているにすぎない。

私的所有には

  • 直接的生産者=小経営
  • 資本家的所有
  • の2パタンがあると読みました。「私人が労働者である」=小経営、「非労働者である」=資本家という解釈です。

    小経営の歴史的役割

    労働者が自分の生産手段を私的に所有していることが小経営の基礎であり、小経営は、社会的生産と労働者自身の自由な個性との発展のための一つの必要条件である。確かに、この生産様式は、奴隷制、農奴制、およびその他の隷属的諸関係の内部でもまた実存する。しかし、それが繁栄し、その全活力を発揮し、適合した古典的形態をとるのは、労働者が自分の使用する労働諸条件の自由な私的所有者である場合、すなわち農民は彼が耕す畑の、手工業者は練達した技能で彼が使用する用具の、自由な私的所有者である場合のみである。

    小生産の積極的意義を論じた部分です。「確かにA、しかしB」の構文です。一般にBであることを強調するために、Aもあるかもしれないが、それはたいしたことではなく… と譲歩するわけです。こんがらがってきたら、読者は簡単にBと割り切って読めばよいのでしょう。したがって、解釈次第でここは、小経営を一つの独立した「生産様式」として認めていると読める箇所になります。

    小経営の歴史的限界

    この生産様式は、土地やその他の生産手段の分散を想定する。それは、生産手段の集積を排除するのと同じように、同じ生産過程のなかでの協業や分業、自然にたいする社会的な支配と規制、社会的生産諸力の自由な発展をも排除する。それは、生産および社会の狭い自然発生的な限界とのみ調和しうる。

    こちらでは小経営の限界が論じられています。小経営は分散的であるために、「社会的生産諸力」の上昇に限界があるというのです。まえのパラグラフで述べたことの裏返し、意義と限界を述べて移行を説く、よく使われる論法です。

    ただし、ちょっと注意してみると、この節には「生産諸力」という用語が『経済学批判』の「序文」ほどでてきません。生産諸力 vs 生産関係(生産関係というのは所有関係のこと、平たくいえばだれが生産手段を所有しているかが「生産関係」です)が対立の基本ファクターでした。ここで繰り返しでてくる用語は「生産様式」(生産諸力 と 生産関係の結合したものが「生産様式」)です。私の訳本では訳注で〔フランス穏版ではこの段落にでてくる数カ所の「生産様式」は、すべて「経営制度」となっている〕と補足されています。

    唯物史観

    特定の高さに達すれば、この生産様式は、それ自身を破壊する物質的手段を生み出す。この瞬間から、社会の胎内ではこの生産様式を桎梏と感じる諸力と熱情とが動きだす。この生産様式は破壊されなければならないし、また破壊される。

    抽象的一般的原理は、唯物史観の公式として『経済学批判』の序文で述べられていた周知の内容です。ところが、生産様式の移行が具体的なにどのように進んできたのか、その歴史的具体化においては大きな違いがあります。これに続く次の引用をみてください。

    その破壊、個人的で分散的な生産手段の社会的に集積された生産手段への転化、それゆえ多数者による小量的所有の少数者間による大量的所有への転化、それゆえまた広範な人民大衆からの土地、生活手段、労働用具の収奪、この恐るべき、かつ非道な人民大衆の収奪こそは、資本の前史をなしている。…自分の労働によって得た、いわば個々独立の労働個人とその労働諸条件との癒合にもとづく私的所有は、他人の、しかし形式的には自由な労働の搾取にもとづく資本主義的私的所有によって駆逐される。

    封建的生産様式から資本主義的生産様式への移行ではありません。基本は、小生産から大工業への移行です。これは、私的所有のタイプAからタイプBへの移行です。私的所有とは異なる封建制のもとでの所有関係から、資本主義における所有関係=私的所有へ移行したというのではありません。

    第21章と第22章における領有法則の転回論、自己労働に基づく私的所有から他人労働に基づく私的所有への移行が生じるという話は、私的所有をめぐるイデオロギー批判、現にある私的所有をオーソライズしている考え方の屈折した関係を明らかにする物象化論として読んできたのですが、ここでは現実の歴史過程として、私的所有の転換があったという記述になっています。

    ふりかえってみると、これまで資本主義の起源に関して、不用意に「資本の原始的蓄積」という用語をつかって論じてきたのですが、起源を「蓄積」と結びつけることには充分な注意が必要だということがわかります。蓄積論は規模の理論です。ただ労働力商品が創出されたというのではありません。そこで『資本論』の解釈としてではなく、新たな問題をここで設定してみたいと思います。資本主義の起源は、①労働力商品化一般ですむのか、あるいは②小経営の駆逐=「大工業」化も必須とするのか、という問題です。あるいは①と②の関係はどう捉えたらよいのか、という問題といってもかまいません。①だけを独立で想定できるのか、ということです。少しズレを含みますが、わかりやすくするためにパラフレーズすると(ここからちょっといい加減なところをふくみますが)、純粋資本主義の資本主義像は①だけの可能性にたった理論ということになります。つまり《労働力商品化一般=産業資本=規模は不問》→《後発資本主義の資本主義化=重工業化=大規模生産=株式資本 u.s.w.,…》です。段階論と原論は別物だ、等々はその通りですが、基本は資本主義の生成でも原理的規定でも、規模の問題を問わないことがポイントなのです。しかし、宇野弘蔵の書いたものを読むと「原始的蓄積」という用語にふみこんだ批判はなく(少なくとも私が不注意だったのか気づかずに)、資本主義の生成=資本の原始的蓄積という用語とテーゼを常用してきました。

    細かいことばかり気にすると思うかもしれませんが、これは資本主義の起源に、そして資本主義の本質に深く関わります。資本主義と大規模生産の問題は、20世紀のマルクス主義に一貫して流れてきたイデオロギーです。これは『資本論』の集中論から独占論となってゆきますし、その裏側では社会主義=計画経済論にもなってゆきます。詳しい説明は別にゆずりますが、20世紀末のグローバリズムの底流を捉えそこなった一つの原因も、この大規模化=蓄積論型資本主義像にあったのではないか、と思います。このあとまだまだ話したいことはあるのですが、ここでの読解からは脱線しそうなのでやめときますが、ともかくこの第7節でのトーンの変化が大きな問題につながっていることは確認しておきたいと思います。

    収奪の第二弾

    いまや収奪 expropriieren されるべきものは、もはや自営的労働者 selbstwirtschaftende Arbeiter ではなく、多くの労働者を搾取するexploitieren 資本家である。

    この前後からすでに蓄積=収奪になっています。資本家が資本家から収奪するというのは、資本の集中です。「労働のいっそうの社会化 Vergesellschaftung」「共同的生産手段へのいっそう転化」と、資本の集中との間には概念的に少し距離があると思いますが、ここでは表裏一体になっています。

    第三弾

    ①ますます増大する規模での労働過程の協業的形態、②科学の意識的な技術的応用、③土地の計画的利用、④共同的にのみ使用されうる労働手段への労働手段の転化、⑤結合された社会的な労働の生産手段としてのその使用によるすべての生産手段の節約、⑥世界市場の網のなかへのすべての国民の編入、⑦したがってまた資本主義体制の国際的性格が、発展する。

    ①から⑤まではまえのパラグラフで述べられていますが、あえて第三弾といえば⑥と⑦の追加です。

    収奪者の収奪

    この転化過程のいっさいの利益を横奪し独占する大資本家の数が絶えず減少していくにつれて、貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取の総量は増大するが、しかしまた、絶えず膨脹するところの、資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大する。資本独占 Kapitalmonopol は、それとともにまたそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的な外被とは調和しえなくなる一点に到達する。この外被は粉砕され資本主義的私的所有の弔鐘が鳴る。収奪者が収奪される。

    ここはギュッと圧縮された記述になっています。「生産様式の桎梏」となっているのは何か、主語は「資本独占」です。しかし、何の足かせなのか?本来なら「生産力」ではないかと思うのですが、これはふれられていません。「資本独占」に至っても、それが直接「生産力」の上昇を制約することはないでしょう。ただもう収奪=集中の対象となる中小資本がいなくなったというだけで、「資本独占」になったから拡張発展がやむことはありません。

    このパラグラフにはもう一つのファクターが登場します。「訓練され結合され組織される労働者階級の反抗」です。当然最後の鐘を鳴らすのはこの労働者階級ということになります。桎梏論からいうと、生産力の上昇が資本主義制度のもとでは停滞して限界に達する、と考えるのが筋です。20世紀のマルクス主義ではこのラインで桎梏論が捉えられてきました。資本主義では成長が停滞する、これに対して計画経済のソビエト連邦では成長が進む、ここから体制選択論的に社会主義への移行が説かれてきました。しかし、このパラグラフでは、この資本主義=独占=非競争=停滞というラインではなく、肝心なところで、「労働者階級の反抗」が登場します。しかし、これは論理的な説明として充分か。少なくともここまでの『資本論』の記述に、「貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取」の実例は山ほどでてきますが、「訓練され結合され組織される労働者階級」の形成はあまり見当たりません。『資本論』の読者としても、こうした労働者階級がでてくるはずだ、でてこないと困る、というのはわかるのですが、でてくる必然性は論理的に保証されていません。このあたりが、20世紀のソビエト革命以降、空想的な「労働者階級」の名のもとに、革命家や党官僚が権威権力をほしいままにする体制を生みだした一つの根因があると思います。

    もう一度まとめると、資本主義の最後を告げる説明が、①「生産様式の桎梏」が停滞論ではなく、②「労働者階級の抵抗」になっている、これがポイントです。

    否定の否定

    資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、それゆえ資本主義的な私的所有 kapitalistische Privateigentum は、自分の労働にもとづく個人的な私的所有 individuellen Privateigentum の最初の否定である。しかし、資本主義的生産は、自然過程の必然性をもってそれ自身の否定を生み出す。これは否定の否定である。この否定は、私的所有を再建するわけではないが、しかし、資本主義時代の成果—-すなわち、協業と、土地の共同占有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共同占有 Gemeinbesitz —-を基礎とする個人的(個体的とも訳されてきたが)所有 individuelle Eigentum を再建する。

    ここも圧縮された記述になっています。いちおうの解釈として、つぎの三段階を「否定」でつなぐ論理になっているととることができます。

    1. 個人的な私的所有
    2. 資本主義的な私的所有
    3. 個人的所有

    市民社会派はこの一節を捉えて、資本主義的私的所有の否定は「共同所有」ではなく、いわんや「国有」でもなく、個人的所有を再建することにあると宣言し、ソ連型社会主義の国有企業・計画経済を批判しました。たしかに『資本論』の蓄積論を読んでみると、国有化などはどこにみでてきません。しかし、この個人的所有の再建論に結実する第7節自体、上でみたようにやや唐突に、直接的生産者=小経営 → 資本=大工業 という図式を導入して、否定の否定論を仕組んだ面があります。ですので、解釈としても、この節だけとりだして個体的所有の再建=社会主義がマルクスの真意だったというのは一面的だということもできます。

    私自身、解釈はそれ自身おもしろいので、かなり熱中するほうです。ちょっと屈折した文章をめぐって解釈論争もしてきました。論理トレーニングのようなもので、それなりにスキルの差がものをいいます。とはいえ、解釈=真意論で「決着」をつけるような議論にあまり興味はありません。所詮解釈は解釈、中味は赤の他人が書いた文章です。解釈として正しいということと、解釈した命題が真であるということは別の話です。私にはそうは読めない読み方をする人がいても、それはそれとして受け入れてきました。問題は、どういう命題を読みとったのかを確認=確定して、そのあと、その命題=主張の真偽を批判=判定したほうがよいと考えています。たしかに『資本論』をやっつけることだけが目的で、わざとねじ曲げた読み方をする人は後を絶ちませんが、それは相手にしなければよいだけの話で、目くじらをたててこの種の連中の退治にパトスを燃やす人をみると、時間の無駄だなという気がします。

    ちょっと脇道に逸れましたが、このパラグラフの読み方についていうと、もう一つ、個体的所有について注意するべき点があります。それは次の二つのどっちにウェートをおくかです。

    1. 協業と生産手段の共同占有
    2. 個人的所有

    2.にウェートをおいて「共有」や「国有」ではなくて「個人的所有」だと読むか、1.にウェートをおいて「所有」のあり方ではなく、広い意味での大規模化=集中による生産力効果にウェートをおいて読むかです。正統派なら後の読み方で対抗するのではないでしょうか。私は1.でも2.でもありません。これまで示唆してきたように、①資本主義の起源にも発展にも、大規模化=生産力上昇論を否定します。資本主義の起源を「原始的蓄積」とよぶこと自体をやめようかとさえ考えています。②もちろん、資本主義以前に私的所有=小経営型の経済が先行したことも否定します。小生産者が没落してプロレタリアートになったのではなく、封建制のもとにあって土地に緊縛されていた農民がプロレタリアートになったと、第23章の第1-3節あたりから読みとっておきます。

    では、資本主義の起源についてどのように考えるのか、私の積極説を述べておきます。

    1. 資本の発生については、本格的な商品があれば貨幣が同時に存在し、商品と貨幣が実在する市場では必ず転売による増殖をはかる資本が発生する。
    2. 資本を軸とする市場が存在しても、ただちに資本主義にはならない。資本が社会的再生産を編成処理するには、全面的な労働力商品化(平たくいえば労働市場の形成)が必要条件となるが、これは商品・貨幣・資本の展開にとっては「外的条件」である。
    3. 労働市場の形成は、生産規模の拡大、資本の(原始的)蓄積を必須としない。もっと緩い条件であると同時に、規模の拡大以外のいくつかの条件と密接に結びついて可能となる。ともかく、たとえば労働力の商品化=規模の拡大(資本の原始的蓄積)あるいは=機械制大工業のような特定の歴史的事象とのリンクを着ることが必要である。これは、何段階の考察を挟まなければいけないが、資本主義の多重起源説の基礎の基礎になる。
    4. 資本は資本主義に先行して広く存在する。労働市場が形成されると資本は生産過程に浸透し、労働過程を変容させる。変容のしゅたるターゲットは、熟練と労働組織である。この領域に変容を引きおこす「開口部」が存在しているためである。しかし、これまでのマルクス経済学はこの領域の理論化に無頓着であった。それはもっぱら、価値論というメガネを通して労働過程を論じてきたからである。問題の根本は、熟練とは何か、といった原理的考察をぬきに、熟練労働の価値形成についてパズルを解いたり、協業・分業・機械制大工業を、相対的剰余価値の生産の方式としてそれ自身の分析を回避するような基本的アプローチにある。労働か定論の抽象レベルとあげて、商品の二要因から演繹的に市場の理論を構築したのと同じ演繹型理論をつくる必要がある、と私は考えています。

    革命型移行

    諸個人の自己労働にもとづく分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化は、もちろん事実上すでに社会的生産経営にもとづいている資本主義的所有の社会的所有への転化よりも、比較にならないほど長くかかる、苦しい、困難な過程である。まえの場合には少数の横奪者による人民大衆の収奪が行なわれたが、あとの場合には人民大衆による少数の横奪者の収奪が行なわれる。

    この小見出しは、ちょっとやり過ぎかもしれませんが、最後に資本主義の成立は漸進的で長期にわたるが、弔鐘が鳴ったあとは、次の社会に一気に進むという説明でこの節は閉じられています。すでに大規模生産の基礎ができているから、外皮を剥がせば社会主義が現れるという考え方だと読みました。これは生産力的な観点からの読み方ですが、だから収奪者の収奪は一瞬ですむというのは「革命家」なら小見出しのように解釈するのではないかと思いました。このパラグラフには20年前の『共産党宣言』からの引用が付されています。

    第23章は大まかにまとめると次の三つになります。

    1. 労働力商品化論:第1-3節
    2. 資本(家)の発生論:第4-6節
    3. 小経営・資本主義・「社会主義」論:第7節

    3番目はちょっとヘンですが、第7節は、今回みたように圧縮された記述で異なる解釈を生みやすい節です。繰り返しますが、時代の現実が、20世紀のマルクス主義の世界観とイデオロギーがこえた以上、現実のトータルな理解には、『資本論』第1部全体を大きく捉え批判することで、資本主義の起源とゆくえを再考する必要があると私は考えています。

    佐々木隆治さんから『マルクスの物象化論』の増補改訂版をいただきました。あらためて「序論」を読んでみたら次のような市民社会派評価にでくわしました。

    「平田清明らの市民社会論者は資本主義的生産様式においては自由で自立した個人によって構成される市民社会が伏在していると考えた。… 経済学批判研究におけるマルクスの語法においては市民社会=ブルジョア社会にほかならず、そこで実現される自由や平等は物象の担い手としての「自由」と「平等」でしかなかった。… マルクスはむしろ前近代的な共同体やツンフト、小経営のうちに自由の可能性をみていたのである。マルクスが賞賛した「個人的所有」はまさに前近代的所有の一形態であったが、市民社会論者によって誤読され、あたかも近代的な自立した個人の所有であるかのように解釈されてしまった。」(14ページ)

    佐々木さんの「序論」は全体として、日本のマルクス経済学の諸潮流に対して「誤読」と解釈論で挑戦するスタイルですが、それはそれとして、佐々木さんの解釈でちょっと気になるのは「「個人的所有」はまさに前近代的所有の一形態」という読み方でしょう。この節を読んだかぎり、「諸個人の自己労働にもとづく分散的な私的所有」こそ佐々木さんのいう「前近代的な共同体やツンフト、小経営」における私的所有であり、これに対して「否定の否定」で登場する「個人的所有」は、やはりこの私的所有とは違う、と私は読みます。

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