『資本論』第二巻を読むI:第2回

  • 日 時:2019年 5月22日(第4水曜日)19時-21時
  • 場 所:駒澤大学 3-802(三号館の奥のエレベータで8階に)
  • テーマ:『資本論』第2巻 第1篇第1章
第1章「貨幣資本の循環」

G — W … P’ …. W’ — G’ は産業資本の形式としてよく知られているのですが、「貨幣資本の循環」としてここではじめて登場するものです。なぜ、第1巻ではでてこなかったのか、考えてみます。

G −− W … P … W’ −− G’ の図式を提示し、三つの「段階」に分けて考察すると述べられています。この図式は宇野弘蔵が「産業資本的形式」と名づけて『経済原論』の第1篇「流通論」に移行したものです。『資本論』第1巻には登場しません。第2巻のここが初登場です。

これらの形態を純粋に把握するためには、さしあたり、形態変換そのものおよび形態形成そのとはなんのかかわりもないすべての契機が捨象されなければならない。それゆえ、ここでは、諸商品はそれらの価値どおりに販売されるということばかりでなく、この版売がまえと変わらぬ事情のもとで行なわれるということも仮定される。したがって、循環過程中に起こりうる価値変動も度外視されれる。

『経済原論』(1964)はこの一節に長い評注を加えています。この注ではさらに第1巻の「資本の蓄積過程」の冒頭の一節も引用して次のように『資本論』を批判します。これは宇野没後の宇野理論のコアが流通の不確定性とか市場の無規律性とかといって拡張した出発点の一つになる評注です。

商品経済では、いわば「正常でない「仕方のうちに「正常な仕方」が実現されるものとして、この「正常な仕方」をも理解しなければならない。商品経済の法則性は、無政府的な諸「契機」をただ「捨象」してしまったのでは、「形態」規定を「純粋に把握する」ことはできくなる。85頁

第一段階、G — W

G −− Pm £372 とG −− A £50 という例です。第3節で 生産物 W’ が £500 の価をもつ(S.44)というので、剰余価値が£78 「搾取度」が 156% であるというのですが、ここでは剰余価値率 100% で考えているようで、ちょっと例の設定がズレています。

三つの段階 Stadium ないし局面 Phase に分けてみても、とくに新しい論点はでてきません。「貨幣資本の状態にある資本価値も、貨幣諸機能を果たしうるだけで、ほかの機能はなたしえない。」とか「労働そのものは価値をもちえない」S.35 とか、否定形で第1巻の内容が繰り返されています。



新しくでてきた用語として注意すべきは次の二つです。

  1. 貨幣資本と生産資本
  2. 資本価値

1.の定義は次の通りです。2.の「資本価値」については第3節のところで考えてみます。

彼が貨幣形態で前貸しした価値は、いまや、それが剰余値(諸商品の姿態での)を生む価値として具現されうる現物形態をとっている。言い換えれば、その価値は、価値および剰余価値を創造するものとして機能する能力をもつ生産資本という状態または形態にある。この形態にある資本をPと呼ぶことにしよう。

ところでP の価値は、A + Pm の価値に等しく、A とPmとに転換されたG に等しい。G は、Pと同じ資本価値 kaptalwert であり、異なる実存様式をとっているだけである。すなわち、貨幣状態または貨幣形態にある資本価値 — 貨幣資本である。

「生産資本」を… P …という「過程」で理解したくなる箇所もあるのですが、この定義だとW (A+Pm) そのものです。強調されているのは、貨幣資本が貨幣資本たりうるのは、労働力商品は存在するからだがこの労働力商品はただ貨幣があってもでこないという点です。次の一節の奴隷を賃労働者におきかえれば、だいたいこの節の主題はわかります。これも資本の原始的蓄積で論じら得れてきたことの繰り返しになります。

奴隷の売買も、その形態から見れば、商品の売買である。しかし、奴隷制が実存しなければ、貨幣はこの機能を果たしえない。奴隷制が現存すれば、貨幣は奴隷の購入に投じられうる。逆に、貨幣が買い手の手中にあるだけでは、決して、奴隷制を可能にするのに十分ではない。S.38



もう一つ繰り返されているのは、労賃形態の話です。「仮装形態」という表現ははじめてみました。

われわれが知っているように、労賃は一つの仮装形態 verkleidete Form にすぎないのであり、この形態においては、たとえば労働力の日価格は、労働力によって一日のあいだに流動化される労働の価格として表わされ、したがって、たとえば、この労働力によって六時間の労働で生産きれる価値が、この労働力の一二時間の機能または労働の価値として表現されるのである。

この節で特徴的なのは、非資本主義的生産への浸透論です。この浸透論と商品経済外的なゲバルト重視の本源的蓄積論の関係が重要だと思いますが、この節では両論併記的で関係がつかめません。

前述したように、資本主義的生産は、ひとたび創始されると、その発展中にこの分離を再生産するだけでなく、絶えずより大きな範囲にそれを拡大しもするのであって、ついにはこの分離が一般的支配的な社会的状態になってしまう。しかし事態はもう一つ別の面を呈する。資本が形成され、それが生産を支配できるようになるためには、商業の — したがってまた商品流通の、それとともに商品生産の — ある一定の発展段階が前提される。というのは、物品は、販売のために、すなわち商品として、生産されない限りは、商品として流通にはいり込むことはできないからである。ところが、商品生産は、資本主義的生産の基礎上ではじめて生産の正常な支配的な性格として現われる。S.39

うえの引用の後に「ロシアの土地所有者たち」の話が続きます。しかし、商品経済の浸透論からズレた「貨幣資本の不足」の話になってしまいます。しかも、この貨幣資本を重視した資本観は、産業資本家が貨幣を借りる機能資本家になってしまう問題ぶくみの結論になっています。

時がくればバラの花が摘めるのであり Mit der Zeit pflückt man Rosen、〔やがて〕産業資本家は、自分の金 sein eignes Geld だけでなく、他人の金 l´argent des autres 〈das Geld der anderen〉 をも自由に利用するのである。

第二段階、生産資本の機能

第一段階、貨幣資本の生産資本への転化は、第二段階の、生産資本の機能の、先駆けおよび導入局面としてのみ、現われる。S.40

基本的に第一段階と第二段階を区別して考える意味があまりなくなります。表題も「生産資本の機能」となっています。内容も G — A の A が中心です。

ただ労働力労働力の(再)生産ではなく「維持」になっている点は覚えておきたいと思います。

賃労働者は、労働力の販売によってのみ生活する。労働力の維持 Erhaltung — 賃労働者の自己維持— には、日々の消費が必要である。



もう一点、第1節でもでてきた、非資本主義的生産との接合の問題が論じられています。

資本主義的生産の基本条件 — 賃労働者階級の定在 — を生み出すその同じ事情は、い
っさいの商品生産の資本主義的商品生産への移行を促進する。資本主義的商品生産はるのと同じ程度に、あらゆるより古い、主として直接的自家需要を目的として生産物品に転化する生産形態にたいして、分解的解体的に作用する。それは、さしあたり外見上はそのものを侵害することなしに、生産物の販売を主要な関心事にする —たとえば、貿易が中国人、インド人、アラビア人などのような諸民族に与えた最初の作用がそうし第二に、この資本主義的生産が根を張ったところでは、それは、生産者たちの自家労働に叫か、または単に余剰生産物を商品として販売することにもとづく、商品生産のすべての形態を破壊す
る。それは、まずもって商品生産を一般化し、それからしだいにすべての商品生産を資本生産に転化させる。

第三段階 W’—G’

商品と「商品資本」の区別がまず論じられています。貨幣と貨幣資本の区別を論じたとのと同じタイプの議論です。まえはA 労働力商品の有無が問題でした。今度は W’ が剰余生産物を含むという点が繰り返し強調されています。W’ = W + w で G’ = G + g だという話です。そして、W – G は G — W — G で二度目の転化だが、w — g ははじめての「変態」だというのです。

同じ流通過程 W’ — G’ も、それが資本価値 Kaptalwert の場合と剰余価値の場合とでは、それぞれにとって両者の流通の異なる一段階を表現する限りにおいて、すなわち両者が流通の内部で経過すべき変態系列のなかの異なる一部分を表現する限りにおいて違いがある。w すなわち剰余価値は、生産過程の内部ではじめて生み出された。したがってそれは、はじめて商品市場に、しかも商品形態で現われる。商品形態は剰余価値の最初の流通形態であり、したがって、それゆえ w — g という行為も剰余価値の最初の流通行為またはその最初の変態であり、この変態は反対の流通行為または逆の変態 g — w によってさらに補足されなければならない。

この「資本価値」は第1節の引用1で定義されたものです。「貨幣は、資本価値の最初の担い手として現われ、それゆえ、貨幣資本は、資本の前貸しされる形態として現われる」というように、貨幣額を価値と同定する資本概念です。この章では、このような貨幣額を中心とした資本像が支配的で、G … G’ をもって資本の基本する考え方になっています。G — W — G というそれ自体は増えない「資本価値」が存在して、売買差額がこれが「剰余価値」として対置されるかたちになっています。この「資本価値」は、第1巻の価値形態論をベースとした価値の「姿態変換」という考え方と整合するかどうか、議論してみたいと思います。

総循環

一般的定式との比較。等労働量交換を前提にした、文字通り形式的な比較です。ここでは「形態上の諸変態」に対して「実質的な変態」S.56 など、「形態」概念の拡大解釈がみられます。局面の「停滞」にふれたところもありますが、三局面を同等に扱うもので、販売 W’ — G’ の困難を重視するものではありません。S.58

形式的な比較ではなく実質的に意味のある考察として、運輸の話が出てきます。チュプロープ『鉄道経済』モスクワ 1875 が引用されています。第2巻は第1巻と著しく違って、この種の引用参照がほとんどありません。ここでおそらくロシア語の本からの引用がぽつんとでてくるのが印象的です。ロシアへの興味が現れています。内容は生産即消費という有用効果の生産論です。貴金属生産と形式的には似ている S.61 というのですが、これは販売のもつ独自性を曖昧にしてしまうのでマズいと思います。

貨幣資本の循環を4点ほど箇条書きで特徴づけています。中心は資本は「金儲け」だという点になります。

流通形態 G … G’は、金儲け das Geldmachen、すなわち資本主義的生産の推進的動機を、もっとも明白に表わす。S.62

この種の通俗的な資本観をもっと批判すべきだと思うのですが、『資本論』はこれも一面だ、重商主義というイデオロギーもあるだろう S.95 という感じで受容してしまうところがあるようで、このあたりが私にはしっくりきません。



棒線の後、①貨幣資本の循環と「一般的商品流通」との絡み合い ②三循環形式の関係が論じられています。①のところでも「金儲け」がでてきます。

貨幣資本の循環は、産業資本の循環のもっとも一面的な、それゆえもっとも適切でもっとも特徴的な現象形態であり、産業資本の目的および推進的動機—すなわち価値増殖、金儲け、および蓄積 Verwertung des Werts, Geldmachen und Akkumulation —が一目瞭然に表わされている。S.65

②については、宇野弘蔵の『経済原論』では「総循環」を円形につないだ図を示して、三つの循環形式をこの一面だと位置づけて、各論にはいるというかたちになっています。教科書的にはこれがスマートでしょう。



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