『資本論』第二巻を読む:第10回


  • 日 時:2020年 2月19日(第3水曜日)19時-21時
  • 場 所:駒澤大学 3-802(三号館の奥のエレベータで8階に)
  • テーマ:『資本論』第2巻 第2篇第9章
第9章「前貸資本の総回転。回転循環」
流動資本と固定資本の区別だけでなく、固定資本のなかにもさらに回転期間の長短の区別がある、だから全体を平均した総回転の期間を考える必要がある、というのがこの章の主旨ですが、「『総回転』は算数遊戯にすぎない」(日高普『資本の流通過程』1977年)と一蹴された章です。問題はここで紹介されている総回転期間の長短が利潤率の高低を生むかどうかにあります。因みに剰余価値率は回転期間から独立の値です。総回転の差が利潤率の差につながらないなら、「こんなもの、計算しても意味ない」ということになります。で実際、「意味ない」のです。その理由を考えてみたいと思います。とはいえ「資本の投下と貨幣の支出」「資本と費用」「ストックとフロー」こうした基本的な区別さえきちんとできていれば、理由はおのずと明らかになりますが…

『資本論』のテキストは(1)から(6)の六つに分けてありますが、ここで三つに区切ってまとめてみます。

平均回転の意味

(1)から(3)まで。なぜ平均回転を計算する必要があるのかが論じられています。答えは固定資本といっても相対的に長期のもの、短期のものがあるから。

同一事業における固定資本の相異なる構成諸部分も、その寿命が異なり、 したがって再生産時間が異なるにつれて、それぞれ回転期間を異にする。S.183

それゆえ、固定資本の相異なる部分の特殊な諸回転を、同種の回転形態に還元して、それらを量的にのみ、すなわち回転期間〔の長さ〕 から見てのみ異なるものにすることが必要である。S.184

この「それゆえ」は「諸回転」がある、ゆえに「同種の回転形態に還元」が「必要」だ、といっているのみ。この回転期間の違いが、さらになにか(たとえば利潤率)の違いを説明する、という意味ではない。

「(ニ) この場合には、量的区別ばかりでなく質的区別も生じる。」という文意はとりにくいですが、引用2 に続く「このような質的同一性〔同種性〕qualitative Dieselbigkeit」という表現で統合される「区別」と解しておきます。

このあと、固定資本をふくむ平均回転の計算では、P…P循環ではなくG…G’循環が前提となると付言します。固定資本に支出された費用(『資本論』ではこれを「投下された資本」といってしまうのですが)が全部回収される期間を考えているわけで、当然のことです。

(3)の最後のパラグラフで「回転する資本価値」が「前貸資本」より大きくなる例が挙げられています。
固定資本は10年で償却、原材料などに投下された流動資本は年に5回転するとして、次のように「回転する資本価値」という概念を規定しています。

「回転する資本価値」= 固定資本の価値移転分 80,000 x 0.1回転 + 流動資本 20,000 x 5回転

そして、こうすると「回転する資本価値」が「前貸資本」を上まわることになるというのです。

「前貸資本」100,000 < 「回転する資本価値」108,000

しかし「回転する資本価値」というのは、自己増殖する価値の運動体という「資本」の基本概念を逸脱しています。5回転しても、すなわち姿態変換しても、資本価値が5倍になるということはあり得ません。ストックとであるべき「資本」をこのようにフロー化してしまうと、自己増殖の「自己」は意味を失うことになります。

回転循環

(4)は必ずしも景気循環の話をしようとしているわけではありません。しかし、この箇所は「周期的恐慌」の説明にしばしば援用されてきた有名な箇所です。

大工業のもっとも決定的な諸部門については、 この生命の循環は こんにちでは平均して一〇年と想定している。しかしここでは、特定の年数が問題ではない。ただ次のことだけは明らかである。資本がその固定的構成部分によって縛りつけられている、連結した諸回転からなる、数年間にわたるこのような循環によって、周期的恐慌の一つの物質的な基礎が生じるのであり、この周期的恐慌のなかで、事業は、弛緩、中位の活気、大繁忙、恐慌、という継起する諸時期を通るのである。なるほど資本が投下される時期は、非常にさまざまであり、 一致することはない。とはいえ、恐慌はいつでも大きな新投資の出発点をなす。したがってまた社会全体として考察すれば、多かれ少なかれ次の回転循環 Umschlagszyklus (章題では Umschlagszyklen と複数形になっていますが)のための一つの新たな物質的基礎をつくり出す。S.185-6

「回転循環」というタームはあまり使われていませんが、いちおうここで定義されています。「回転循環」すなわち、固定資本の「回転」期間によって規定される「景気循環」industrieller Zyklus と解しておきます。因みに三つの形式で提示された「資本の循環」の「循環」のほうは Kreislauf で Zyklus ではありません。

19世紀中葉のイギリス資本主義が純粋資本主義に近似している一つの理由として、一〇年周期の景気循環の存在を強調した宇野弘蔵が、周期性の理論的根拠を示した『資本論』の該当箇所としたのがこの引用3です。しかし、固定資本の償却期間と恐慌の周期性を結びつける研究者は最近はほとんど見かけません。「恐慌はいつでも大きな新投資の出発点をなす」とすれば、持続的な不況期は消えてしまいます。不況から好況への転換において、固定異本の更新あるいは「新投資」がなされるとすれば、一〇年周期を示すのこの転換点であり、この一〇年のなかのどこらあたりで恐慌が起きるかは別の問題(宇野弘蔵であれば労働力商品の量的限界がいつ現れるかという問題)になります。

このような宇野弘蔵の主張がその支持者の間で、ともかくある期間、なぜ通用したのか、いま振りかえるとちょっと不思議です。理論というのは、いつだれが称えようと、「正しいものは正しい」はずなのですが、一世を風靡した理論も、繰り返し主張する人がいなくなれば、やはり自然にすたれてしまう運命のものなのでしょうか。理論といってもそこはやはり、社会科学の理論、時代性、属人性もったイデオロギーという面を拭いきれないのかもしれません。

もっとも、このことはまた、いったんすたれた理論が発掘されリバイバルするということにもなります。自然科学の分野では「新ニュートン力学」と「新天動説」とか、でてきそうにありませんが、経済学ではこれが常態。ネオケインジアンとかネオリカーディアンとか、ゴロゴロでてきます。だから、ほとんど見向きもされない理論をやっている研究者も、「そのうちわかるひとがでてくるだろう」と一縷の希望をつなぐことができるのですが、端からみれば大半は「大いなる徒労」。やがて齢を重ねるにつれ、この頼みの綱は心細いものとなり、老い先短くなるほどに世間から持て囃されなぬ苛立ちのみが募り、やがて若いころに熱中した抽象的な原論から離れてゆくようです。

総回転の計算方法

(5)でスクループによる計算を紹介しています。

総回転の計算は単純な加重平均です。
資本の額とその年回転「数」を\(k=(k_1,k_2,\cdots,k_n),u=(u_1,u_2,\cdots,u_n),e=(1,1,\cdots,)\)とすれば、総回転\(U\)は
\(
\displaystyle U = \frac{k\cdot u}{k\cdot e} = \frac{(k_1,k_2,\cdots,k_n)(u_1,u_2,\cdots,u_n)}{k_1+k_2+\cdots+k_n}
\)
になります。
「支出」から「回収」までの期間がまちまちないろいろな「費用」に関して、平均どのくらいの期間で回収されるのかを計算しているだけです。分子は売上高のようなフローの総額です。これは資本の額ではありません。分母は、「投下」された資本の額で、ある時点でのストックの額です。回転数すなわち回収速度をウェートをつけずに単純平均するのではなく、支出額で重みをつけて平均しているだけです。なお \(\displaystyle u’=(\frac{1}{u_1},\frac{1}{u_2},\cdots,\frac{1}{u_n})\) は回転「期間」を表すベクトルになります。

スクループの記事をのぞいてみると、彼はリカードの差額地代論の批判者だったようです。「同じ農業経営者のもとでもいろいろな等級の土地が混合耕作されている。土地の豊度はそれらの平均で与えられる。だから限界地だけが地代を決定するものではない。」という平均説でリカードの『原理』を批判していたようす。なるほど、ここでの回転の平均計算も、リカード批判の付録だったのだろう、と推測されます。

みてすぐわかるように、『資本論』第三部の生産価格も、実は同じ加重平均をつかって一般的利潤率を導く方式で規定されています。各部門の資本額を \(k=(k_1,k_2,\cdots,k_n)\)、 資本構成の違いを反映した個別的利潤率を\(r_i\) とし \(1+r_i\) を要素にもつベクトルを \(u=(u_1,u_2,\cdots,u_n)\) とおけば、一般的利潤率 R は同じような式で与えられます。
\(
\displaystyle 1+ R = \frac{k \cdot u}{k\cdot e} = \frac{(k_1,k_2,\cdots,k_n)(u_1,u_2,\cdots,u_n)}{k_1+k_2+\cdots+k_n}
\)

マルクスは個別的な違いがあると、たいてい加重平均をつかって、個別的には法則からの逸脱がつねに生じるが、平均において法則は貫徹する、というロジックに訴えます。社会的関係は個別的現象を通じて貫徹する、「私的なもの」は市場を通じて「社会的なもの」になる、という一連の着想で、その極みは物象化論(「いやいや、物象化は平均などとは次元が違う」「それは誤読だ」という人は多いですが、残念ながら、際限のない「読解ゲーム」に誘い込むだけで、この「違い」をそれ自体明晰に説明してもらったことはありません)でしょう。たしかに解釈の問題としてなら、「これこそマルクスだ」といってもよいのですが、「解釈として正しい」ということと「解釈した内容が正しい」ということは別の問題で、私自身はこの流れには与しません。むしろ、投下労働価値説にたちながら、この種の平均論に慎重だったリカードのほうに強い興味を覚えます。\((x_1,x_2,\cdots x_n)\) というようにいろいろあれば、法則が成りたつのは、どれでもない「抽象的」平均 \(x^*\) ではなく、いろいろあるうちのどれか一つ \(x_i\) だ(たいてい最小や最大ですが)という発想です。

いずれにせよ問題は、この平均値がどんな意味をもつか、にあります。(6)でコメントがなされています。
マルクスのコメントは二つあって、一つ目は労賃の後払期限の任意性、二つ目は生産在庫の存在が回転期間に及ぼす影響、です。いずれもスクループの計算を「補足」しているだけで、正面からのその限界あるいは誤りを論じているものではありません。わざわざ一章をさいて紹介してこのように終わると、あたかも総回転が積極的意味があるような誤った印象をあたえます。私は総回転=数学遊戯説に賛成で、この章は無視してもいいのですが、せっかく読んできたので少しだけ私の考えを述べておきます。

  1. 価値移転まで価値の「流通」とよんでしまうような流通概念の曖昧化は、スクループやその翻案である合衆国の実用的教科書を中途半端に受け入れてしまったことに一因があるのではないか。

    工場主、農場経営者、または商人が労賃の支払いに投下する資本は、もっとも速く流通する。….原料または完成在庫品に投下された資本は、それほど速くは流通しない。

    これはスクループの文章ですが、「資本が流通する」という用語法は『資本論』第二部にそのまま流れ込んでしまっているようにおもえます。

  2. 『資本論』の投下労働価値説の基本(これを是とするかどうかはともかく)に即していえば、固定資本の多寡や回転期間の長短は当然剰余価値率には影響を与えません。すでに不変資本一般にしてそうなのですから。したがって回転に関しても、剰余価値量に影響を与えるのは、可変資本の回転、あるいは可変資本は流動資本だというのであれば、流動資本の回転だけです。だからもし「回転期間」という概念を使うのであれば、必要なのは流動資本の回転期間のみです。この回転期間をベースに、この期間内に支出回収がおこなわれない支出対象を「固定資本」と一括すればよいはずです。

    固定資本の概念は理論上無意味なのだ、というのではもちろんありません。その存在は利潤率計算の分母を大きく左右します。ただその場合でも、固定資本に対する支出回収の期間の長短は、①剰余価値量はもちろん、②利潤率計算においても意味がありません。基本的には、ですが。固定資本に対する支出は、「減価償却済みの評価額+回収された貨幣の額」という一定額で全額つねに利潤率計算の分母にはいるからです。これが原理で、この修正はいろいろやればよい、というのが原論屋の発想です。

    「いく種類もの回転期間を平均するというのは、現象につられて原理を曖昧にするのみ。」マルクスにはこのくらい強く言ってほしかったところです。
  3. これはオマケですが…この章の最後の一文にコメントしておきます。

    信用制度は、商業資本と同様に、個々の資本家にとっての回転を変化させる。信用制度が社会的規模で回転を変化させるのは、信用制度が生産ばかりでなく消費までも促進させる限りでのことである。S.188

    この命題は真か偽か。戦後の日本のマルクス経済学では、とくに1960-70年代あたりから信用論の研究が活発に進められてきました。その成果の一つは、この命題に否定です。要するに、個別産業資本は流通過程に、結果からみると必要以上の貨幣準備(流通資本)を投下しており、商業銀行、銀行信用の形成発達はこれを節減し、したがって回転期間を短縮する社会的効果をもつのだ、という「機構論」です。信用制度が「消費までも促進させる」というのは労働者が信用を利用することを考えない範囲では説明できません(この制限を外してもむずかしいでしょうが)。信用制度は個別的現象で、この個別的現象は全体には影響を及ぼさない、という個別的・社会的の二分法は、『資本論』の底流なのですが、日本のマルクス経済学(の一派)は果敢にこれを乗りこえようとしてきたような気がします。

1 thought on “『資本論』第二巻を読む:第10回

  1. T

    上の2のおわりのところに、「このような宇野弘蔵の主張がその支持者の間で、ともかくある期間、なぜ通用したのか、いま振りかえるとちょっと不思議です。」とありますが、これは誤解でしょう。

    「固定資本の償却期間と恐慌の周期性を結びつける」宇野の主張に対しては、その支持者のなかでも、当初から異論が多かったと記憶しています。(A)「周期的恐慌現象を自由主義段階における純化傾向の証左とする」ことと、(B)「固定資本の更新期間で恐慌の周期性を説明する」こととは同じではありません。宇野の支持者の間では、(A)を支持しながらそれを(B)とは違う根拠で恐慌を説明する道が模索されてきたように思います。むかしきいた杉浦克己氏の恐慌論など思いだします。

    もともと10年周期というのは理論的にはかなりキツい結論です。周期性一般までは「原論」的に説明できるが、周期がちょうど10年になるというのは「原論」では説明できない、とするのが相場なのではないでしょうか。さらに、10年でなく、たとえば、8年、8年、8年 … と同じ x 年間隔で恐慌がおこるということも理論的には説明できないという立場もあるでしょう。10年、8年、9年、…間隔はまちまちだ、というところまで後退すれば、けっきょく、恐慌は「いつかはおこる」といっているのと同じことになります。

    こうして、宇野支持者の恐慌論研究の重心は、信用論研究などの深化と連動して、激発恐慌の必然性のほうにシフトし、周期性の問題はその陰に隠れてしまったキライがあります。いずれにせよ、引用[3]を拠り所にした宇野の主張に同調者が多かったというのは事実誤認でしょう。

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