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変革のアソシエ講座「『資本論』を読む」の講義内容

『資本論』第二巻を読む:第10回


  • 日 時:2020年 2月19日(第3水曜日)19時-21時
  • 場 所:駒澤大学 3-802(三号館の奥のエレベータで8階に)
  • テーマ:『資本論』第2巻 第2篇第9章
第9章「前貸資本の総回転。回転循環」
流動資本と固定資本の区別だけでなく、固定資本のなかにもさらに回転期間の長短の区別がある、だから全体を平均した総回転の期間を考える必要がある、というのがこの章の主旨ですが、「『総回転』は算数遊戯にすぎない」(日高普『資本の流通過程』1977年)と一蹴された章です。問題はここで紹介されている総回転期間の長短が利潤率の高低を生むかどうかにあります。因みに剰余価値率は回転期間から独立の値です。総回転の差が利潤率の差につながらないなら、「こんなもの、計算しても意味ない」ということになります。で実際、「意味ない」のです。その理由を考えてみたいと思います。とはいえ「資本の投下と貨幣の支出」「資本と費用」「ストックとフロー」こうした基本的な区別さえきちんとできていれば、理由はおのずと明らかになりますが…

『資本論』のテキストは(1)から(6)の六つに分けてありますが、ここで三つに区切ってまとめてみます。

平均回転の意味

(1)から(3)まで。なぜ平均回転を計算する必要があるのかが論じられています。答えは固定資本といっても相対的に長期のもの、短期のものがあるから。

同一事業における固定資本の相異なる構成諸部分も、その寿命が異なり、 したがって再生産時間が異なるにつれて、それぞれ回転期間を異にする。S.183

それゆえ、固定資本の相異なる部分の特殊な諸回転を、同種の回転形態に還元して、それらを量的にのみ、すなわち回転期間〔の長さ〕 から見てのみ異なるものにすることが必要である。S.184

この「それゆえ」は「諸回転」がある、ゆえに「同種の回転形態に還元」が「必要」だ、といっているのみ。この回転期間の違いが、さらになにか(たとえば利潤率)の違いを説明する、という意味ではない。

「(ニ) この場合には、量的区別ばかりでなく質的区別も生じる。」という文意はとりにくいですが、引用2 に続く「このような質的同一性〔同種性〕qualitative Dieselbigkeit」という表現で統合される「区別」と解しておきます。

このあと、固定資本をふくむ平均回転の計算では、P…P循環ではなくG…G’循環が前提となると付言します。固定資本に支出された費用(『資本論』ではこれを「投下された資本」といってしまうのですが)が全部回収される期間を考えているわけで、当然のことです。

(3)の最後のパラグラフで「回転する資本価値」が「前貸資本」より大きくなる例が挙げられています。

「前貸資本」100,000 < 「回転する資本価値」108,000

「回転する資本価値」= 固定資本の価値移転分 80,000 x 0.1回転 + 流動資本 20,000 x 5回転

しかし「回転する資本価値」というのは、自己増殖する価値の運動体という「資本」の基本概念を逸脱しています。5回転しても、すなわち姿態変換しても、資本価値が5倍になるということはあり得ません。

回転循環

(4)は必ずしも景気循環の話をしようとしているわけではありません。しかし、この箇所は「周期的恐慌」の説明にしばしば援用されてきた有名な箇所です。

大工業のもっとも決定的な諸部門については、 この生命の循環は こんにちでは平均して一〇年と想定している。しかしここでは、特定の年数が問題ではない。ただ次のことだけは明らかである。資本がその固定的構成部分によって縛りつけられている、連結した諸回転からなる、数年間にわたるこのような循環によって、周期的恐慌の一つの物質的な基礎が生じるのであり、この周期的恐慌のなかで、事業は、弛緩、中位の活気、大繁忙、恐慌、という継起する諸時期を通るのである。なるほど資本が投下される時期は、非常にさまざまであり、 一致することはない。とはいえ、恐慌はいつでも大きな新投資の出発点をなす。したがってまた社会全体として考察すれば、多かれ少なかれ次の回転循環 Umschlagszyklus (章題では Umschlagszyklen と複数形になっていますが)のための一つの新たな物質的基礎をつくり出す。S.185-6

「回転循環」というタームはあまり使われていませんが、いちおうここで定義されています。「回転循環」すなわち、固定資本の「回転」期間によって規定される「景気循環」industrieller Zyklus と解しておきます。因みに三つの形式で提示された「資本の循環」の「循環」のほうは Kreislauf で Zyklus ではありません。

19世紀中葉のイギリス資本主義が純粋資本主義に近似している一つの理由として、一〇年周期の景気循環の存在を強調した宇野弘蔵が、周期性の理論的根拠を示した『資本論』の該当箇所としたのがこの引用3です。しかし、固定資本の償却期間と恐慌の周期性を結びつける研究者は最近はほとんど見かけません。「恐慌はいつでも大きな新投資の出発点をなす」とすれば、持続的な不況期は消えてしまいます。不況から好況への転換において、固定異本の更新あるいは「新投資」がなされるとすれば、一〇年周期を示すのこの転換点であり、この一〇年のなかのどこらあたりで恐慌が起きるかは別の問題(宇野弘蔵であれば労働力商品の量的限界がいつ現れるかという問題)になります。

このような宇野弘蔵の主張がその支持者の間で、ともかくある期間、なぜ通用したのか、いま振りかえるとちょっと不思議です。理論というのは、いつだれが称えようと、「正しいものは正しい」はずなのですが、一世を風靡した理論も、繰り返し主張する人がいなくなれば、やはり自然にすたれてしまう運命のものなのでしょうか。理論といってもそこはやはり、社会科学の理論、時代性、属人性もったイデオロギーという面を拭いきれないのかもしれません。

もっとも、このことはまた、いったんすたれた理論が発掘されリバイバルするということにもなります。自然科学の分野では「新ニュートン力学」と「新天動説」とか、でてきそうにありませんが、経済学ではこれが常態。ネオケインジアンとかネオリカーディアンとか、ゴロゴロでてきます。だから、ほとんど見向きもされない理論をやっている研究者も、「そのうちわかるひとがでてくるだろう」と一縷の希望をつなぐことができるのですが、端からみれば大半は「大いなる徒労」。やがて齢を重ねるにつれ、この頼みの綱は心細いものとなり、老い先短くなるほどに世間から持て囃されなぬ苛立ちのみが募り、やがて若いころに熱中した抽象的な原論から離れてゆくようです。

総回転の計算方法

(5)でスクループによる計算を紹介しています。

総回転の計算は単純な加重平均です。
資本の額とその年回転「数」を\(k=(k_1,k_2,\cdots,k_n),u=(u_1,u_2,\cdots,u_n),e=(1,1,\cdots,)\)とすれば、総回転\(U\)は
\(
\displaystyle U = \frac{k\cdot u}{k\cdot e} = \frac{(k_1,k_2,\cdots,k_n)(u_1,u_2,\cdots,u_n)}{k_1+k_2+\cdots+k_n}
\)
になります。
「支出」から「回収」までの期間がまちまちないろいろな「費用」に関して、平均どのくらいの期間で回収されるのかを計算しているだけです。分子は売上高のようなフローの総額です。これは資本の額ではありません。分母は、「投下」された資本の額で、ある時点でのストックの額です。回転数すなわち回収速度をウェートをつけずに単純平均するのではなく、支出額で重みをつけて平均しているだけです。なお \(\displaystyle u’=(\frac{1}{u_1},\frac{1}{u_2},\cdots,\frac{1}{u_n})\) は回転「期間」を表すベクトルになります。

スクループの記事をのぞいてみると、彼はリカードの差額地代論の批判者だったようです。「同じ農業経営者のもとでもいろいろな等級の土地が混合耕作されている。土地の豊度はそれらの平均で与えられる。だから限界地だけが地代を決定するものではない。」という平均説でリカードの『原理』を批判していたようす。なるほど、ここでの回転の平均計算も、リカード批判の付録だったのだろう、と推測されます。

みてすぐわかるように、『資本論』第三部の生産価格も、実は同じ加重平均をつかって一般的利潤率を導く方式で規定されています。各部門の資本額を \(k=(k_1,k_2,\cdots,k_n)\)、 資本構成の違いを反映した個別的利潤率を\(r_i\) とし \(1+r_i\) を要素にもつベクトルを \(u=(u_1,u_2,\cdots,u_n)\) とおけば、一般的利潤率 R は同じような式で与えられます。
\(
\displaystyle 1+ R = \frac{k \cdot u}{k\cdot e} = \frac{(k_1,k_2,\cdots,k_n)(u_1,u_2,\cdots,u_n)}{k_1+k_2+\cdots+k_n}
\)

マルクスは個別的な違いがあると、たいてい加重平均をつかって、個別的には法則からの逸脱がつねに生じるが、平均において法則は貫徹する、というロジックに訴えます。社会的関係は個別的現象を通じて貫徹する、「私的なもの」は市場を通じて「社会的なもの」になる、という一連の着想で、その極みは物象化論(「いやいや、物象化は平均などとは次元が違う」「それは誤読だ」という人は多いですが、残念ながら、際限のない「読解ゲーム」に誘い込むだけで、この「違い」をそれ自体明晰に説明してもらったことはありません)でしょう。たしかに解釈の問題としてなら、「これこそマルクスだ」といってもよいのですが、「解釈として正しい」ということと「解釈した内容が正しい」ということは別の問題で、私自身はこの流れには与しません。むしろ、投下労働価値説にたちながら、この種の平均論に慎重だったリカードのほうに強い興味を覚えます。\((x_1,x_2,\cdots x_n)\) というようにいろいろあれば、法則が成りたつのは、どれでもない「抽象的」平均 \(x^*\) ではなく、いろいろあるうちのどれか一つ \(x_i\) だ(たいてい最小や最大ですが)という発想です。

いずれにせよ問題は、この平均値がどんな意味をもつか、にあります。(6)でコメントがなされています。
マルクスのコメントは二つあって、一つ目は労賃の後払期限の任意性、二つ目は生産在庫の存在が回転期間に及ぼす影響、です。いずれもスクループの計算を「補足」しているだけで、正面からのその限界あるいは誤りを論じているものではありません。わざわざ一章をさいて紹介してこのように終わると、あたかも総回転が積極的意味があるような誤った印象をあたえます。私は総回転=数学遊戯説に賛成で、この章は無視してもいいのですが、せっかく読んできたので少しだけ私の考えを述べておきます。

  1. 価値移転まで価値の「流通」とよんでしまうような流通概念の曖昧化は、スクループやその翻案である合衆国の実用的教科書を中途半端に受け入れてしまったことに一因があるのではないか。

    工場主、農場経営者、または商人が労賃の支払いに投下する資本は、もっとも速く流通する。….原料または完成在庫品に投下された資本は、それほど速くは流通しない。

    これはスクループの文章ですが、「資本が流通する」という用語法は『資本論』第二部にそのまま流れ込んでしまっているようにおもえます。

  2. 『資本論』の投下労働価値説の基本(これを是とするかどうかはともかく)に即していえば、固定資本の多寡や回転期間の長短は当然剰余価値率には影響を与えません。すでに不変資本一般にしてそうなのですから。したがって回転に関しても、剰余価値量に影響を与えるのは、可変資本の回転、あるいは可変資本は流動資本だというのであれば、流動資本の回転だけです。だからもし「回転期間」という概念を使うのであれば、必要なのは流動資本の回転期間のみです。この回転期間をベースに、この期間内に支出回収がおこなわれない支出対象を「固定資本」と一括すればよいはずです。

    固定資本の概念は理論上無意味なのだ、というのではもちろんありません。その存在は利潤率計算の分母を大きく左右します。ただその場合でも、固定資本に対する支出回収の期間の長短は、①剰余価値量はもちろん、②利潤率計算においても意味がありません。基本的には、ですが。固定資本に対する支出は、「減価償却済みの評価額+回収された貨幣の額」という一定額で全額つねに利潤率計算の分母にはいるからです。これが原理で、この修正はいろいろやればよい、というのが原論屋の発想です。

    「いくつもの回転期間を平均するというのは、現象につられて原理を曖昧にするのみ。」マルクスにはこのくらい強く言ってほしかったところです。
  3. これはオマケですが…この章の最後の一文にコメントしておきます。

    信用制度は、商業資本と同様に、個々の資本家にとっての回転を変化させる。信用制度が社会的規模で回転を変化させるのは、信用制度が生産ばかりでなく消費までも促進させる限りでのことである。S.188

    この命題は真か偽か。戦後の日本のマルクス経済学では、とくに1960-70年代あたりから信用論の研究が活発に進められてきました。その成果の一つは、この命題に否定です。要するに、個別産業資本は流通過程に、結果からみると必要以上の貨幣準備(流通資本)を投下しており、商業銀行、銀行信用の形成発達はこれを節減し、したがって回転期間を短縮する社会的効果をもつのだ、という「機構論」です。信用制度が「消費までも促進させる」というのは労働者が信用を利用することを考えない範囲では説明できません(この制限を外してもむずかしいでしょうが)。信用制度は個別的現象で、この個別的現象は全体には影響を及ぼさない、という個別的・社会的の二分法は、『資本論』の底流なのですが、日本のマルクス経済学(の一派)は果敢にこれを乗りこえようとしてきたような気がします。

『資本論』第二巻を読む:第9回


  • 日 時:2020年 1月15日(第3水曜日)19時-21時
  • 場 所:駒澤大学 3-802(三号館の奥のエレベータで8階に)
  • テーマ:『資本論』第2巻 第2篇第8章
第8章「固定資本と流動資本」
一口に費用といっても、頻繁に支出回収される費目もあれば、いったん支出されると回収に時間がかかる費目もあるのはすぐわかること、だから「機械や工場設備は固定資本、原材料は流動資本だ」という区別には自然にみえます。ところが、一歩ふみこんで、そもそも「固定資本」とはなにかを、一般的に定義しようとすると途端にむずかしくなります。何をメルクマールとして固定・流動に二分したらよいのか、両者の間に中間的なものは存在しないのか、この章も批判的に読み込んでみると問題が山積しています。

形態的区別

基本定義

最初の4パラグラフで固定資本の定義が与えられています。しっかり読み込んでみましょう。

資本価値のうち労働手段に固定されたこの部分は、(中略)その使用形態で流通する zirkulieren のではなく、ただその価値だけが流通する zirkulieren のであり、しかも、その価値がこの資本部分〔労働手段〕から生産物に — 商品として流通する生産物に — 移行する übergehen のに応じて、徐々に、少しずつ流通する zirkulieren 。(中略) この独自性によって、不変資本のこの部分は、固定資本という形態を受け取る。S.160

あとのほうにも同じような規定がでてきます。

労働過程の本性にもとづく労働諸手段と労働対象との区別が、固定資本と流動資本との区別という新たな形態に反映される。S.162

簡略化すれば、「労働手段」(に投下された資本)→「固定資本」。そのうえで、その特性を部分的価値移転 Wertübertragung に求めた文章です。部分的価値移転 →「固定資本」という一般的な定義になっているかはハッキリしません。固定資本・流動資本の区別は、対象規定なのか、(「独自性」)属性規定なのか、という問題です。1,2,3… が自然数だというか、公理をたてて自然数を定義するのか、の違いのようなものです。理論的には後者の属性規定でゆくべですが、それはかなりむずかしく、ここでも「使用形態での流通」「価値の流通」という見慣れぬ規定が登場し、両者が一致しないものが固定資本であるという定義になっています。「価値の流通」はこれまでのところでは、生産手段の価値は労働によって生産物に「移転」する、と述べられてきました。この「流通」は第一部で厳密に規定してきた「流通」の意味から大きく逸脱しています。「流通」という用語がここで「流動」化してしまっています。このパラグラフの最後のところでエンゲルスが「生産過程に前貸しされた資本のうちの他の素材的構成諸部分は、すべて、それと対照的に、流動資本〔zirkulierende order flüssiges Kapital〕 を形成する。」と、マルクスの草稿にない flüssiges の一語をわざわざ追加せざるを得なかったワケがあります。

補足規定

この後いくつか、補足規定が続きます。定義に対して「混同しやすいがこれは固定資本ではない」式の補足が列挙されています。こちらは基本定義に対してわかりやすいので、昔の『経済原論』の教科書には必ずでていました。

  1. 補助材料も素材的には生産物に入り込まないが固定資本ではない。
  2. 輸送手段は個人的消費に入り込む点で他の固定資本とちょっと違う。
  3. 土地改良に使用される素材(遅効性の肥料なども)は固定資本になる。
  4. 役畜は固定資本。食用は流通資本。
  5. 機械製造業者の機械は流動資本だが、機械の買い手のもとでは固定資本。

固定性の程度

労働手段の固定性の程度は、その耐久性につれて増大する。すなわち、(中略)

生産過程で使用される資本と生産過程で消費される資本との差額はそれだけ大きくなる。S.161

どれが固定資本で、どれが流動資本か、という二分法ではない「固定性の程度」論がちょっとだけ顔をのぞかさせています。これが本来の定義かどうか、わかりませんが、私はこちらに与します。重要なのは「使用される資本」と「消費される資本」の区別です — もっとも「消費される資本」は用語法として無理だと思いますが。第三部だと「充用される資本」と「支出される資本」となるわけですが、ここまでゆけば「支出される費用」と明確に言い切るまであと一歩です。途中省略でいえば、けっきょく大事なのは「資本」と「費用」の区別にゆきつくわけで、私が昔書いた教科書はこの立場で一貫させようとしたものです。

補足規定 part II

古典派の混同を正すというかたちで追加がなされています。S.162

  1. もとより不変資本・可変資本を固定資本・流動資本と混同すべからず。
  2. 物理的不動性は固定資本とは無縁、船舶をもって推して知るべし。
  3. 役畜と飼育家畜の別。労働手段と固定資本の関係付けに向いているかどうかは?
  4. 期間の長短が固定資本を決めるのではない。一年を要する種子だって流動資本たるをもってあとは推して知るべし。
  5. 固定資本の多くは外国に送ることはできないようだが、外国に売買することは可能、つまり国境をまたいで「観念的に流通する」「株式という形態で外国市場でさえも流通する」。ここもだからといって、固定資本・流動資本の区別は微塵も動くわけではないのですが。

固定資本の回転

主たる生産物の生産・流通に対してだけではなく、固定資本にも独自の「回転」概念を認めます。このように複数の回転を想定するとけっきょく、解決不能な泥沼に陥るように思うのですが。

ここでは固定資本に関して、現物と回収された償却資金という二重の存在をとることが指摘されています。

現物形態での固定資本が摩滅によって失う価値部分は、生産物の価値部分として流通する。(中略)
したがって労働手段の価値は、 いまや二重の実存をもつことに なる。(中略)
機械の価値は、さしあたり貨幣準備金の形態で徐々に蓄積される。S.164

可変資本の流動資本的性格

労働力について少し長い再論がなされています。結論は次の点でしょう。

固定資本に対立する流動資本という規定性を受け取るのは、労働者の生活諸手段ではない。それは労働者の労働力でもなく、生産資本のうち労働力に投下された価値部分こそそれである。S.166

生活諸手段ではない、労働者の労働力でもない、というのですが、単純に、対象物ではなく、「資本」なのだから「可変資本」なのだ、というだけならこれほど長く論じる必要はないはずです。

結論

四項に箇条書きされています。

  1. 固定資本・流動資本は生産資本の下位範疇。流動資本と商品資本・貨幣資本すなわち流通資本 Zirkulationskapital を混同すべからず。A.スミスのように。ここではさすがに流動資本は das zirkulierende Kapital ではなく das flüssige Kapital になっています。
  2. 回転の多重性
  3. 部分的価値移転による償却資金の形成。これを固定資本の「価値」が二重に「実存」するといってしまうのは誤りです。形態にある種の二重性を認めることはできても、価値の量は少なくとも変わりません。
  4. 「同じ反復される生産過程のなかで、まったく同一の建物、機械などが機能し続ける。」強調されているわけではありませんが、「まったく同一の」dieselben identischen に留意しておきましょう。identische が英語の identical と「同じ(!)」かどうか、わかりませんが、もしそうなら same ということでしょう。つまり、機械は使っても同じ状態を維持する、ということで、使うにつれて性能が落ちてくるという性能劣化論と対立します。私は性能不変説を支持します。

固定資本の、構成諸部分・補填・修理・蓄積

『勅命鉄道委員会。委員への証言記録。両院に提出』ロンドン 1867年 などを参照しながら、節タイトルのとおりの内容が詳しく論じられています。「摩損」Der Verschleiß という概念が基礎になっているようです。

消耗と摩損

摩滅はまず使用そのものによって引き起こされる。(中略)
さらに摩滅は、自然力の作用によって生じる。(中略)
最後に、大工業ではどこでもそうであるように、ここでも社会的摩滅 der moralische Verschleiß がその役割を演じる。(中略)
摩滅は (社会的摩滅を別とすれば)、固定資本がその消耗 Vernutzung によって、その使用価値を失う verlieren 平均度に応じて徐々に生産物に引き渡す価値部分である。

三番目の「社会的摩損」は学生だったころ「道徳的摩損」という奇妙な訳語で習った覚えがあります。その後moralische には「目に見えない」という意味があると教えられ、「無形の摩損」ぐらいが適当なのかもしれません。しかし、高性能な機械の登場を物理的な劣化と同列におき「摩損」という範疇でとらえるのはやはり誤りです。第三部の市場価値論は、必ずしも機械の存在を重視した内容にはなっていませんが、新しい機械の登場の効果は価値論レベルで説明すべきです。せっかく第三の「摩損」として計上しておきながらすぐに「社会的摩滅を別とすれば」と控除するのであれば、はじめから「摩損」概念を比喩的に拡大するのはやめるべきです。最後の文にあるとおり、基本になっているのは、①「固定資本の消耗」(=機械の物理的劣化のこと)と②「摩損」=「価値部分」を対応させる性能劣化論です。

補填

「補填」Ersatz というのは、減価償却資金を積み立てて、耐用年数に達した機械設備を「更新」Erneurung することです。ここでは
「固定資本の他の諸要素は、周期的または部分的な更新ができる。」(S.172)ということから「部分的更新の進行中における事業の漸次的な拡張」(S.172) の可能性に論及しています。いわゆる「マルクス・エンゲルス効果」あるいは「ローマン・ルフチ Lohman-Ruchti 効果」につながる議論です。

維持費

維持費は補填とは別ものです。Erhaltungskost はもちろん「費用」です。技術的に客観性をもって必要となるのであれば、原材料や労働力同様に「流動資本」扱いすればよいはずです。少し事情が違うのは偶発的な故障などへの対応です。これに関しては次のような説明があります。

他方、資本および労働のこの追加支出によってつけ加えられる価値は、それらが実際に支出されるのと同時に諸商品の価格にはいり込むものではないということも、同様に明らかである。①たとえば、 紡績業者は、今週は滑車がこわれたからとかベルトが切れたからとかいう理由で、先週よりも高く糸を売るわけにはいかない。紡績業の一般的費用は、個々の工場におけるこのような事故によっては決して変動しはしなかった。②この場合にも、すべての価値規定の場合と同様に、規定するのは平均である。 一定の事業部門に投下された固定資本の平均寿命中における、 このような事故と必要な維持および修理労働との平均的な規模は 、 経験によって示される 。 この平均的支出は、〔固定資本の〕平均寿命の期間に配分され、それに照応する可除部分が生産物の価格につけ加えられるのであり、それゆえ生産物の販売によって補塡される。S.176

興味深い箇所ですので、全部引用してみました。ポイントはで示した部分で、偶発的な費用は「一般的費用」にはいらないとしている点です。①は正解でしょう。競争相手の紡績業者を登場させれば、理由がもっとハッキリします。はいらないのだから、これで一貫させるべきなのですが、こうしたバラツキの問題に直面すると、必ずきまって、すぐ「平均」がでてきます。②は誤りです。商品価値を規制するのは、偶発的要因を除去した「一般的費用」だとすることで、客観価値説は堅持されます。この考え方は、1970年代以降のマルクス経済学研究で、流通費用をめぐって深められてきたのですが、この種の偶発的な維持費・修繕費も同じことになります。

なお、労働が付随的におこなう「無償の維持」が強調されています。このあと

  1. 償却期間を短めにとり、修繕費を固定資本の摩損と合算する簿記手法の紹介
  2. 家屋の賃貸を固定資本の貸付と説明
  3. 自然災害に対する「保険」の費用

などが列記されている。

維持費と更新費の流動化

本来の修理と補塡との境界、維持费と更新費との境界は、多かれ少なかれ、流動的である。S.178

鉄道を中心に、この命題の事例が詳しく紹介されています。原理的にどう考えればよいのか、一般論を探ってみましょう。大きな設備投資がなされていて、そのメンテナンスに費用がかかる。必要な費用をかければ、設備は基本的に劣化することなく、新品と同じ状態で、あるいは多少は改良されて稼働し続ける。したがって、設備全体を更新する必要はないわけで、補填のための費用はゼロ、あるいは維持費が事実上の補填費である、ということになります。『資本論』は事例の紹介からどういう結論を引きだしているのか、よくわかりません。本来費用として計上すべき維持費を、補填のための積立金に紛れ込ますことで、利潤を水増しし、配当をふやそうとするのだ、「老巧な管理者たちが配当の獲得のために、修理および補塡という概念をどれほど広い限界内でうまく運用するかについて、 ここに一つの証拠がある」(S.180)というのです。

しかし、この「修理と補塡」の流動化はもう少し積極的に評価し原理的に活かす余地があるとと私は考えています。極論ですが、投下と回収の期間の長短にかかわらず、生産に投下された資本はすべて一種の「永年耐久性をもつ工事」Werke von sekulärer Dauer(S.191) として一括処理すればよい、つまり、これは「性能劣化論」ではなく、維持費という「費用つきの性能不変論」になる、という結論になります。要するに、固定資本・流動資本の区別をするより、投下資本と支出費用の区別を厳密におこなうほうが、利潤をめぐる諸資本の競争を解明する基礎理論としては有効性をもつ、というのが私の立場です。詳しく知りたければ当日質問してください。

信用制度との関係

最後にワンパラグラフ、償却資金の積み立てと支出を蓄蔵貨幣と流通手段の関係に結びつけたあとで、信用制度に論及しています。

信用制度が大工業と資本主義的生産との発展に必然的に並行して発展するにつれて、 この貨幣は、蓄蔵貨幣としてではなく 資本として機能するが、しかしその所有者の手中でではなく、その運用をまかされた他の資本家たちの手中で機能する。

戦後の一時期、第三部第五篇の「貨幣資本家」が「機能資本家」に貨幣を貸すという「利子生み資本」論では激発恐慌が説明できないと批判し、蓄積資金とともにこの償却資金が、産業資本の内部で相互に「融通」される関係として信用論を再構築しようとする流れが生まれました。その一つの拠り所とされた一節です。パチリと一枚、記念撮影をして今日は解散、長々ごくろうさまでした。

『資本論』第二巻を読む:第8回


  • 日 時:2019年 12月18日(第3水曜日)19時-21時
  • 場 所:駒澤大学 3-802(三号館の奥のエレベータで8階に)
  • テーマ:『資本論』第2巻 第2篇第7章
第7章「回転時間と回転数」
第2篇「資本の回転」にはいります。第7章「回転時間と回転数」は短い章ですが、「回転」という概念の基本を捉えかえしてみたいと思います。

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『資本論』第二巻を読む:第7回


  • 日 時:2019年 11月20日(第3水曜日)19時-21時
  • 場 所:駒澤大学 3-802(三号館の奥のエレベータで8階に)
  • テーマ:『資本論』第2巻 第1篇第6章
第6章「通流費」
この章も、現代的な経済原論が形成されるようになってゆく契機になった重要な章です。1960年代以降、一方では信用論研究が、他方では価値形態論の研究が活性化していったのですが、両者の交点として、前章の流通期間や本章の流通費用に関心が集まるようになりました。『資本論』が、ともかく流通期間や流通費用という、古典派経済学では — そしてその後の経済学でも— ほとんど論じられることない、「流通」(本質は「販売」)が理論の表舞台に登場させたことは画期的です。

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『資本論』第二巻を読む:第6回

  • 日 時:2019年 10月16日(第3水曜日)19時-21時
  • 場 所:駒澤大学 3-802(三号館の奥のエレベータで8階に)
  • テーマ:『資本論』第2巻 第1篇第5章
第5章「通流時間」

本章および次の第6章は、資本の流通過程における「実質的な real 問題」を扱うことになります。このうち、本章は時間、厳密にいえば期間に焦点があてられています。章のタイトルは「通流時間」ですが(なおまったく同じ章タイトルの第14章が存在します。第二部が草稿であることを如実に示すものとして、よく引き合いに出される話です)、前半では生産期間が中心課題になっています。

1960年代以降でしょうか、今日まである意味では、価値形態論の研究の延長線上に、実質的に意味のある資本分析、マルクス経済学らしい原論が形成されるようになった、基礎の基礎です。比較的短い章ですが、興味深い内容なので、突っ込んで議論したいと思います。

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