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経済原論の課題と方法

---- 資本主義の歴史性をめぐって ----

(1993年五月祭経済学部学生有志パンフレットに掲載)

収斂か拡散か

今から振り返るといささか奇妙なことであるが、 1980年代に入ってもなお、経済体制に関する 理論では次のような収斂説が大きな影響力をもっていた。 すなわち、市場の競争原理と 公的な計画の利点とをあわせもつような 混合経済に最適化するとか、 あるいは資本主義も社会主義もともに けっきょくは産業社会という共通の目的地に至るための二つの 経路にすぎないのだといった考え方が なお支配的であったのである \footnote{ Kerr\cite{Kerr},chap.1などをみられたい。 } 。 しかし 長期の歴史的観点から捉え返してみると、 1980年代を通じて次のような第1級の地殻変動が 同時多発的に世界経済に襲ったことは、 今日だれの目にも明らかであろう。
社会主義経済体制の崩壊
20世紀を通じて支配的であったソビエト型社会主義にもとづく 経済体制は、 80年代を通じて試みられてきた諸々の改革の果に、 90年代においてはっきりと瓦解の過程にはいった

新たな資本主義諸国の勃興
従来資本主義的な発展が難しいと考えられてきた 第3世界において、 先進資本主義諸国とのさまざまな むすびつきを強化しながらではあるが、 市場を軸とした独自の経済発展が顕著となった。

産業構造の大転換
先進資本主義国においても、 20世紀の産業社会の中核をなしてきた大量生産方式が 成熟し定常化するなかで、 情報通信技術の急速な普及を基礎とした 新たな産業構造が台頭する兆候が認められる。

そうしたなかで経済体制をめぐる議論も 当時とはかなり異なった趣を呈している。 一つの立場は、 このような地殻変動をやはり収斂説的に捉えながら、 ただその収斂するところは混合経済や 産業社会ではなく 実は資本主義経済そのもので あったのだとするものであろう。 たしかに、社会主義が瓦解してゆくなかで NIES諸国にみられるような新たな型の資本主義社会が台頭してくる 状況は、まさしく歴史的な発展の主導権を 握る主体が資本主義そのものであることを 如実に示しているかのように映じてくる。

しかしひとたび資本主義そのものの内部に目を転じてみると、 そこでは合衆国がもはや単一の機軸であることを止め、 それに雁行するかたちで 日本を中心とした東アジア地域や EC統合を押し進めるヨーロッパ地域に 新たな機軸が形成され、 しかもこれら3者の間の性格の違いは、 社会主義の瓦解と 第3世界における資本主義的発展の動きによって、 むしろますます顕著なものになってきている。 この点からみると、 21世紀に向かって全世界が望ましい、 なにかある単一の経済社会に向かって収斂しはじめたと 単純にいいきるわけにはゆかない。 この問題は、もう少し一般的な枠組みのもとで 捉えかえしてみる必要があるように思われるのである。

歴史性の二重の意味

そこで、現在目の当たりに進行している 世界史的な地殻変動の意味を、 資本主義社会は特殊歴史的な存在であるという マルクス経済学の基本的認識との関連で検討してみよう。 マルクス経済学においては、 従来次のような意味において 資本主義経済は特殊歴史的な社会をなすといわれてきた。 すなわちその基本をなすのは、 資本主義社会は 資本の本源的蓄積とともに二重に意味で 自由な労働者が形成されるという特殊な条件をともなって はじめて確立されたのだという認識であった。 そしてこのような認識はまた、 しばしば商品交換の起源に託されて、 \footnote{ Marx\cite{DKI} S.102. } 商品交換は人間にとって本質的なものではなく、 市場関係は人間社会にとって外来的な存在であるという かたちで、裏側から強調されてきた。 いずれにせよこうした文脈のなかで、 経済理論が対象とするのは、 生産・流通・消費といった《経済一般》ではなく、 それを市場を通じて律するところの 特殊歴史的な経済社会であるという点が、 主として資本主義経済とそれ以外の経済社会との区別に 関わるものとして強調されてきたのである。

しかし、資本主義経済の歴史性は 単にこのような資本主義経済一般と その外部との関連にとどまるものではない \footnote{ 小幡\cite{obata0} % 199-203ページを参照。 } 。 たしかに マルクスが考えていたように、 資本主義経済がある一つの型に収斂するとすれば、 \footnote{ マルクスの収斂説の典型的な箇所として しばしば引き合いにだされるのは、 「産業の発展のより高い国は、その発展のより低い国、 ただこの国自身の未来の姿を示しているだけである」 (Marx\cite{DKI} S.12)という議論である。 } その特殊性はこの収斂する型と 他の諸社会との対比のうちに明らかにされるべきものとなろう。 ところが、資本主義経済自体、その発展の過程で 多様な型を生みだし変容をとげてきた面がある \footnote{ たとえば宇野弘蔵の経済理論は、 このような側面を特に強く意識して形成されたものである。 宇野\cite{houhouron}「II 経済学研究の分化」 33ページ以下 をみられたい。 } 。 そうしたなかでマルクス経済学の課題も、 資本主義経済一般の特徴を 純粋理論的に捉えるというだけではなく、 むしろ資本主義経済の発展段階を解明する 基準を提示することへと、 その重心を移していった。 そして、このような現実の資本主義経済の多様性への関心は、 マルクス経済学の研究において、 意識的にせよ無意識的にせよ、ともかく 共有され強まってゆく傾向にあるといってよい。 こうして以上のような新たな次元で、 資本主義経済のさまざまな種差としての歴史性が 次第に重要な問題となっていったのである。

境界の減衰

ところで、現在の視点から振り返ってみると、 資本主義経済が他の経済社会に対して有する歴史性と、 資本主義諸国の時間的・空間的な種差として現れる歴史性との関係は、 どのように捉えていったらよいのであろうか。 伝統的なマルクス経済学の理解では、 かりに第2の歴史性という概念を認めたとしても、 これら二つの歴史性の区別は截然としていた。 そこでは第1の意味での歴史性こそ本質的であり、 第2の意味での歴史性は資本主義経済という大枠に包まれた 特殊な問題として考えられてきたといってよい。 そしてこうした枠組みのなかで かなり最近まで、資本主義国として自立できたのは、 帝国主義として資本主義化を達成した日本までであり、 そこには資本主義経済がけっしてすべての国民経済を一律に 領導できるようなグローバルな体制ではないというかたちで、 その歴史的使命の終焉が黙示されているのだ、 といった言説が一般的におこなわれてきた。 資本主義経済の発展段階を、 重商主義・自由主義・帝国主義という3段階において捉え、 第1次世界大戦以降の世界は長期的みれば社会主義への 過渡期であるといった整理も、 基本的には以上のような歴史認識にたつものであったといえよう。

しかし、はじめに述べたような80年代における 同時多発的な地殻変動は、 二つの歴史性の間にはっきりとした 境界を設定することの意義を 著しく減衰させているように思われる。 1970年代以降の第3世界における状況は、 そのすべてが資本主義国への道を依然断たれたままだと いいきることを次第に無理なものとしている \footnote{ とりわけ シンガポールやホンコンなどの都市=国家型の発展には、 興味深い問題である。 軍事的な優位性に、広大な領土と大きな人口を抱える大国の論理が 強く効くことはたしかであるが、 資本主義経済の発展にとって、はたして巨大な国民国家の形成が どこまで必須な要件であるのか、 先進資本主義国内部における 大都市一極集中の動きと重ねあわせてみると、 小国のメリットが効く歴史的な環境が存在することも 一概には否定できないように思われる。 Laxer\cite{Laxer}参照。 } 。 もともと、資本主義経済の発展段階を、 生成・成熟・没落といったかたちに整理することは、 一定の価値判断を前提にしてはじめて可能なのであり、 純粋に理論的にそうした位置づけが導きだされるわけではない。 経済理論がなしうるのは、 資本主義経済がその発展のなかで多形化してゆく 契機となりうるものを探り、 なぜ変容を繰り返すのかという問題を解く 鍵を用意するところまでであろう。 だがこのような範囲に限定するならば、 経済原論ははじめにみた収斂か拡散かというような問題に対して、 単に現象を記述することをこえて、 現代における経済社会の動態に内側から照明をあててゆく という課題を担いうるように思われるのである。

理論の展望

では、このように資本主義経済の多形化と変容という問題に関心を集中したとき、 経済理論の発展はどのような方向において進められることになるのであろうか。 これまでの検討をふまえてみると、そこに一定の方向が浮びあがってくるように思われる。 その焦点となるのは、いわゆる経済原論を構成するうえでもっぱら排除の対象とされ、 いわば理論的な考察のなかで括弧にくくられてきた、 市場における私的な競争原理には馴染にくい 《不純な契機》の取り扱い方であろう。 このような理論的興味を満たすためには、 かかる契機を一方的に捨象し、 あるは極端に単純化することで、 経済原論をメートル原器のような普遍の標準に仕上げたり、 ある種の単純明快な原理によって完結した 境界を有する型枠に鋳直すだけではもはやすまぬことになる。 この種の不変で完結した純粋理論は、 そこからのずれを割りだし列記することまでは可能にしても、 資本主義経済が多形化し変容してゆくメカニズムを考察するためには 充分なものとはいえない。 そのためには、多形化と変容をもたらす契機を 内部から抽象化する方向に理論自身を拡張してゆくことが 不可欠となるのである。

この点を労働力を例に、もう少し説明してみよう。 労働力商品がかかえる問題は、 マルクス経済学の純粋理論の展開においても、 一つの重要な柱とされ研究が重ねられてきた。 しかし、その商品化にはさまざまな次元において不純な 契機の介在する可能性が潜んでいることもたしかである。 そのような複雑な契機に対する一般的な処理方法は、 いわば《不純な契機の純化》とでもいうべきものであった。 すなわち、労働力商品をそれ自体として分析の対象とし、 その商品としての特性を積極的に掘りさげてゆくというのではなく、 それをできるだけ単純な要素に還元することで 理論展開の前提として挿入するといった接近法である。 たとえばそこには人間の主体性の関与とか、 家族のよる生活過程を通じた供給基盤の維持とか、 一般商品と比べて明らかに異なる契機が存在し、 その結果労働市場は市場とはいっても かなり特異な市場に変成せざるをえないのではあるが、 しかし原論の展開においては そうした諸々の契機の分析には立ち入らず、 労働力商品が資本によってその供給量を調整できない、 純粋な資本主義経済における《唯一の単純商品》である という一点に絞り込んだうえで、 理論展開の内部に導入するというような方法がとられてきた。

こうすることで、 たしかに恐慌現象の理論的な分析にとって 必要な、好況末期における賃金騰貴を説明するための 最低限の道具は調うことになる。 しかし、これは周期的な恐慌現象に対するある種の意味づけと 資本過剰による恐慌論の枠組とがあらかじめ前提されており、 そこから理論的に逆算することで労働力商品のある特性が 抽出されたのだといえなくもない。 そしてそのかぎりではまた、 たとえば綿花価格の上昇という対外的な契機を 労働力商品という一国的な要因に投影したにすぎないのだといった、 対象の内部構造をかえって遮蔽してしまう極端な《当てはめ=理論》を うむ素地にもなっているのである。

しかし、資本主義経済の多形化や変容に対する関心を 満たしうるような理論を組み立てるとすると、 《不純な契機》を抽象化し、あるいはその一面を取り出すというのではなく、 人間労働の基本的な特質の分析からはじめて、 流通形態論の展開に端的に示されるような 市場一般によって、 労働力を商品として処理をするには 労働の諸契機をどのように解体し再構成せざるをえないのか、 といった問題を明確に設定し、 その考察方法を意識的に追求してゆかなくてはならない。 こうして、 いわば不純と思われ掩蔽されてきたものの内部構造を 積極的に分析してゆくことが必要となるのである \footnote{ 詳しくは小幡\cite{obata1},\cite{obata2}をみられたい。 } 。

このような意味で、 市場の競争的な編成原理と相対立すると考えられてきた、 いわゆる《 不純な契機》はそのほかにも、 広い意味における人間労働のあり方と密接にむすびついた、 生産技術の形成と交替の問題、 \footnote{ 小幡\cite{obata3},\cite{obata4} } 社会的再生産にとって外的な、 自然環境に関わる広い意味での土地所有の問題、 \footnote{ 小幡\cite{obata-1} } 信用機構の形成などに顕著に現れる制度的要因の問題など、 いくつか理論展開の内部に見いだすことができる。 たしかに、 それらを市場の原理と別個に分析しようとしても その理論化はむずかしいであろう。 可能なのは、それ自身の内部構造が 比較的理論化しやすい市場の側の分析を基底としながら、 それが外部の異質な契機をどのように分解・結合し、 その過程でまた自らも変容することになるのか、 実際の理論展開のなかで探ってゆくことであろう。 この結果経済原論は、 市場そのものに対する一般理論を基層としながらも、 その内部に抽象の度合を異にする いくつかの理論層をかかえた構造にならざるをえないかもしれない。 今日の状況はこうした基本問題に立ち返って、 経済原論の課題と方法を再考する刺激に満ちおり、 経済社会の変化に知的関心をいだくものにとっては、 歴史的な存在としての資本主義経済のもつ 多形性と変容を解き明かす理論を構築する 好機であるように思われるのである。

参考文献

  1. Marx,K., Das Kapital I ,Marx-Engels Werke Bd.23-1, 1962, 岡崎次郎訳『資本論』(1), 国民文庫,1972年

  2. 宇野弘蔵『経済学方法論』, 東京大学出版会,1962年

  3. Wallerstein,I.,Historical Capitalism, 1983, 川北稔訳『史的システムとしての資本主義』岩波書店, 1985年

  4. Kerr,C., The Future of Industrial Society, 1981, 嘉治元郎監訳『産業社会のゆくえ --- 収斂か拡散か ---』, 東京大学出版会, 1984年

  5. Laxer,J., Decline of the Superpowers, 1987

  6. 小幡道昭「土地所有の原理的把握」,『経済評論』(日本評論社), 1981年9月

  7. 小幡道昭『価値論の展開』, 東京大学出版会, 1988年

  8. 小幡道昭「労働市場の変成と労働力の価値」,『経済学論集』(東京大学) 56-3,1990年

  9. 小幡道昭「資本の蓄積と労働力の価値」,『経済学論集』(東京大学) 57-4,1992年

  10. 小幡道昭「コンピュータと労働」,『経済学論集』(東京大学) 58-3,1992年

  11. 小幡道昭「市場と情報 --- マルクス経済理論の立場から ---」,『経済評論』(日本評論社),1993年4月


Last-modified: 2013-05-17 (金) 15:20:38 (3988d)